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戦争の危機など、国が混乱する時は性格ブス思想も蔓延します。
2015年07月18日
ここ最近、ハマっているのが友人に教えてもらったレシピの1つ、ナムル。
もやしをベースにして、キュウリやニンジンなど千切りにしたものを
ごま油や出汁などで和えるだけの簡単なものですが、
冷蔵庫に置いておけば3日間くらいは日持ちする上、
この夏の暑さにはピッタリで、とてもシャキシャキとした食感が最高で、
どんな料理の付け合わせにも合って、ほぼ毎日ナムル漬け・・・(笑)。
まぁ、それはどうでもいいとして、ここでこのブログをご覧くださっている皆さんに、
ちょっとした連想ゲームをして頂きたいと思います。
冒頭の料理の写真とは何の脈絡も感じられない、全く関係のない、こちらの写真。
僕がほぼ月1で行っている洗車で、
その洗車マシーンの中から、その様子を撮影したものですが
周囲が海に囲まれた島である沖縄では、車の部品が早く錆びたり、
汚れもひどくなるので、定期的に洗車をしていないと大変なことになります。
料理と洗車、一体何が関係しているのかと言えば、
別に何の関係性もなく、想像力は自由なので、このブログをご覧下さる方が
どのような連想をされるのかも十人十色な訳で、色々な発想があって良いと思うのです。
普段から僕のブログをご覧下さっている方だったら、
どことなく、そのセオリーというか、システムというか、方式というか、
僕の文章のスタイルをご理解頂けることかと思いますが、
先ず、日々の生活の中で目にしたもの、触れたもの、様々な出来事、事象の中から
自分なりの内面に通じる何かを、言葉として、文章として表現していくスタイルです。
ただ誰かの言った言葉やセオリーを、そのまま垂れ流ししたり、
「スピリチュアルとは・・・」とか、「人生とは・・・」など、
いきなり何の前触れもなく説明口調や何かのバイブルの引用をするのは
文章を書く、自分の言葉で何かを伝えるという才覚のない人がやることであり、
それは単なる素人の文章の書き方、伝え方、情報発信の仕方だと感じています。
今ではブログやSNSなどで猫も杓子も簡単に情報発信が出来る時代ですが、
その簡単さ、安易さゆえに、中途半端な自己表現方法として
これまた中途半端な垂れ流し情報が蔓延し、
それらに影響される中途半端な輩が多くいるのが現状です。
今日ご紹介する内容も、その情報過多時代の陰の部分、
中途半端な思想や垂れ流し情報を、自分のフィルターを通さず
何も考えずに、何も動くことはせずに、単なる感情だけで受け入れ、拡散させてしまう浅はかな
世の中の流れについてお伝えしたいと思います。
それらのことを踏まえて、もう一度、冒頭の写真を思い返してみて下さい。
別に連想ゲームに模範解答というものは存在しませんから、
その点では自由ですが、そこには確固たる自分なりの信念や軸が
含まれていなければいけません。
料理と洗車・・・。
どちらも自ら動かなければ、お腹を満たすことが出来ないし、綺麗になりません。
料理も簡単とは言え、まず食材を買いに行って、台所に立ち調理をしなければいけませんし、
洗車だって、ただ「綺麗になりますように。」と祈ったところで、
そこに行動、実践が伴わなければ、自ら車を運転して洗車マシーンの場所まで行かなければ
綺麗にはならないのです。
今日(というよりいつもですが、笑)、僕がお伝えしたいのは、その部分。
「人は動かなければ、ただ想う、祈るだけでは何も変わらない。」ということ。
ここ数日あたりから、いつもの如く、怪しい中途半端な思想やブログが
世間でもてはやされるようになり、いくら顔見知りの人たちだけで繋がっている
フェイスブックだったとしても、
時々、「馬鹿じゃないの!?」と思う記事のリンクなどをやたらとシェアする人たちもいて
その度に、「早くその浅はかさに気付けよ、馬鹿!」と感じることが続いています。
本人の興味関心事、傾倒している思想などは本当に人それぞれで
自由なのですが、あまりにも度が過ぎた
馬鹿馬鹿しい情報ばかりをシェアしたがる人というのは、
おおよそその時点で、その人の感性、内面が表れているようなものなので、
僕は、そういう馬鹿らしい情報をシェアする確率が高い人たちは、
たとえ知り合いであろうが、友達であろうが、すぐにシャットアウトするようにしています。
要するにブロック設定をして、二度とそこでコミュニケーションを取らない、
または、その本人がシェアした内容などが記事に上がらないような設定をするのです。
とても冷酷のように思えますが、
自ら好んで気分が下がるような馬鹿らしく浅はかで嫌な情報を
一方的に見聞きする理由なんて、どこにもありませんからね(笑)。
ここ最近、安保法案関連の流れで、
一部の中途半端なスピリチュアルマニアの間で大流行しているのが、
「Love&Peace 私は戦争や原発に反対しません。」という
非現実的で、本当に馬鹿らしい発想が毒キノコの如く蔓延しています。
大雑把に説明すると、マザーテレサが発したとされる
「私は反戦運動には参加しないけれど、平和活動(運動)には参加する」
というような言葉を引用した上で、
戦争や原発に反対はしない。それは負のエネルギーが積み重なって
あまり良いものではないから、それを愛のエネルギーに変えて平和を祈る。
自分のハートを愛でいっぱいにして、平和な心で人生を生きていく・・・。」といった、
よく、中途半端なスピリチュアルマニアが大喜びしそうな、ありがちな内容なのですが、
これも毒キノコのようにどんどん蔓延しているように思えます。
先ず、「お前とマザーテレサを一緒にするなよ、この性格ブス!」と、
その厚かましくて図々しいハートの強さにツッコミを入れたくなるのと、
ただ自分を平和な心で満たす、平和に祈りを捧げる・・・だけでは、
そこには実践が伴っていないため、何の意味も持たないという現実が
何故、冷静に判断出来ないのか、よっぽど頭が足りない馬鹿なのかな・・・と
僕自身は感じてしまいます。
確かにスピリチュアリズムの本質に、
「人の想いは良くも悪くも現実化しやすい。」という想念の力の作用があり、
出来ることなら、ネガティブな想いよりも、明るく発展的な想いで
生きていったほうが絶対に良い影響があるのは事実であり、とても大切なことだと感じています。
しかも僕もこのブログで
「戦争反対を声高に叫ぶのなら、まずは自分の心を平和にする生き方を、
生き様として示すべき。」と、ことあるごとにお伝えしています。
ただ、前述した浅はかなLove&Peace思想とは完全に異質のものだと自負していますし、
そういう中途半端な思想は、そこから先の「実践」の部分が完全に抜け落ちているのです。
なるべく明るくて発展的な想いで日々の生活を生きていくためには、
どのような価値観、どのような生き方、どのような行動が必要なのか、
その実践の部分がなければ、いくら愛や平和を訴えたところで
それはただの机上の論理、気休めのおママごと程度にしかなりません。
*「平和を祈る前に、命どぅ宝と叫ぶ前に、自分の命を大切にしましょう。」
*「スピリチュアルと戦いは真逆のイメージですが・・・。」
*「戦争、平和、本当にその教訓を活かして生きていますか?」
*「厳しい観点から平和問題について考えます。」
ですが、頭の上にお花畑が広がっているような中途半端な人間が
「祈りましょう。」「愛に満たされて平和な心でいましょう。」などと
安易な気持ちでそれだけを祈るのは、正直、ズルをしているのと一緒です。
僕がよくこのブログでお伝えする通り、
「想う」「祈る」だけではダメだという事実が完全に抜けているというか、
何故、想うだけ、祈るだけに執着して、
何かを実践すること、実際の行動に移すことをしないのか疑問に感じます。
別に反戦運動や、それらの活動に参加しなくても結構ですし、
実際の行動の仕方は、人によって全く違います。
その代わり、愛と平和を祈る、想うだけの自己満足ではなく、
その気持ちをボランティア活動などで自ら汗水たらして自分の労働力を提供したり、
何かの慈善団体に自ら働いて得たお金を寄付をするとか、
敢えて敵役を買って出て、
厳しい言葉や姿勢で、間違った方向に進んでいる人たちを諌めるとか、
周囲で関わっている人たちが喜ぶイベントを企画するとか、
目の前にいる人たちと心の底から嘘をつかず本音でコミュニケーションを取る努力をするなど、
実際に想う、祈るだけではない、それぞれの愛情や平和の実践を伴った、
「身体を動かす示し方」があるはずなのです。
身体を動かさず、汗をかかず、ただ祈るだけ・・・というのは、なんとも狡賢くて
無意識の上から目線で、綺麗なところだけにいるような中途半端な姿勢で
こういう輩が僕は一番大嫌いです。
愛と平和に自分の心を満たし、祈ることを良しとする人たちに対して、
かなり極端で下品で意地悪な問いかけをすると、おおよその人が無言になると思います。
「そんなに愛と平和を祈るのなら、今、目の前で酔っぱらってゲロを吐いている
見ず知らずのオジサンのゲロの後始末をして
周りが心地良い状態になるようにしてもらえますか?」
「そんなに愛と平和を祈るのなら、周囲の環境も綺麗になるように、
誰がやったのかも分からない便器から飛び出したウンチやおしっこがついた
公衆トイレを綺麗に掃除してもらえますか?」
まぁ、これらの問いかけはあまりにも品がなさ過ぎる極端なたとえですが、
つまりはそういうことです。
「酔っ払いのオジサンのゲロの後始末すること」は嫌だから他の誰かにお任せして、
「酔っ払いのオジサンがゲロを吐かないように祈る」だけ。
「公衆トイレの汚れを掃除すること」は汚くてやりたくないから他の誰かにお任せして、
「公衆トイレが汚れないように日々平和な心で満たし祈る」のが私の生き方・・・。
お花畑信仰の浅はかで狡賢い連中は、
おおよそ、こういう現実的な問題を直視しようとせず、
あくまで天国にいるかのような、対岸の火事を眺めるかのような
ラクな立場から、都合の良いLove&Peaceごっこをしようとする狡賢い人たちでもあります。
ある意味、自分を常にお姫様、王子様扱いされたい中途半端な連中や、
基本は「ありのまま~」に中途半端に感化される人生に欲求不満な性格ブスと同じ発想で、
何もアクションを起こさずに
ただ祈るだけ、愛と平和に満たされた世界を想像することで、
自己表現、自己肯定を求める安易な姿勢がベースになっており、
しかもそれで良い行いをしているかのように勘違いしている思想そのものが、
心底、腹が立って仕方がないのです。
*「かなり危険なLet it go.~ありのままでは、いけません。~」
*「子宮に逃げるな!~子宮は宇宙に繋がりません~」
*「とても厄介なスピリチュアルゾンビ。」
*「一生懸命、全身全霊。流行らないけれど・・・。」
僕は常々、「祈る時間があったら、祈る心の余裕があったら、まずは動けよ!」と
ありとあらゆる事象からお伝えしていますが、
こういう無意識のうちにズルをしようとする輩が一番厄介であり、
僕が最も苦手とする集団でもあり、こういう陳腐で浅はかな発想は、
いつの時代も、どのような国、地域でも、毒キノコのように流行するのも
この世の常だと思います。
そして、そこから先は、その本人の生きるセンスにも関わってくるのですが、
いくら動くことが大切だとは言え、
何の信念も覚悟もないまま、ただ闇雲に周囲の思考感情、風潮に流されて
何かしらの活動に参加したり、自分探しの旅をし続けたりするのも、
それは経験ではなく、生きている時間を無駄に過ごしているだけで、
これまた、愛と平和を祈るだけの人生に欲求不満な性格ブスと何ら変わりありません。
もし反対運動、活動をするのであれば一過性のものではなく、
そこに命を懸けて、一生涯毎日同じことを言い続け、その活動に関わり、
それなりの発言力を身に付ける努力と信念が必要です。
それに、今の安保法案などに命がけで反対を示すのであれば、
まずは、その大半勢力に選挙の票を入れた自分たちにも非があることを認めて
浅はかな目の前のエサに操られて物事の本質を見抜けなかった
自分や周囲の人たちに非がなかったかどうか、
冷静に見つめられなければ、ただの感情論だけで終わってしまうもので、
それもとても浅はかな発想、活動だと思います。
もし本気で死ぬ気で覚悟をもって反対運動を展開するのであれば、
僕は、そういう反対運動の活動家たちが
僕自身の人生の方向性と全く違っていたとしても、
「あぁ、自分の信念をもって生き抜いている人だな。」とその人の生き方に関しては
素直に「お見事」と認めると思うのですが、
おおよその人たちは、時間が過ぎれば、また元通り。
もし本当に平和を祈る気持ちがあって、そういう活動こそが
世の中を変えると本気で思っているのであれば、
反対運動をするのであれば、その覚悟と行動力を示す意味でも、
毎日、毎日、一生涯、ずっとそのことに命を捧げて、人生を捧げて一生続けて下さいな。
そこまでの覚悟と行動力がなければ、
それはただの日和見主義であり、一過性の自身の感情の問題であり、
見つめるべきは、外ではなく、自分の内面だということを
これまた感情ではなく、理性で判断できなければ
その先、本人自身が何も変わることなんてあり得ませんから。
ちなみに僕自身は、確かに今の世の中の動き、
安保法案関連のことに対しては、心の底から嫌気がさして
「馬鹿なオヤジどもが主導して日本全体が、馬鹿な方向に進んでいるな。」と
憤りを感じています。
まぁ、反対運動に参加するおおよその皆さんと根本の気持ちは全く同じです。
ですが、僕が今、本当にやるべきことは反対運動に参加することではなく、
そこで意思表示をすることではなく、
あくまで自分が与えられた環境、自分の人生の中で、
ナカトリモチという自分のお役目にしっかり専念して、
自分の生き様を示しながら、スピリチュアリズムの本質となる
本当の心の豊かさや幸せの在り方を、少しずつ少しずつでも
理解できる素質のある人たちにお伝えしていく活動に集中することでもあります。
優先順位が何なのかを自分の中で感情ではなく、理性で受け止めることが出来れば、
今、何をすべきなのかはおのずと見えてくると思うのです。
ただ祈る、ただ想うだけでもダメ。
ただ闇雲に動く、活動するだけでもダメ。
どちらも中途半端に自分の人生に欲求不満な性格ブス、性格不細工たちが
覚悟や信念のないまま、それらを一生涯、毎日のように続ける行動力もないまま
中途半端に彷徨っているだけの残念な姿勢にしか映りません。
そのような意味で、今の日本という国の流れ、社会情勢は、
もう一度、自分に与えられた人生、向き合っている日々の生活と
しっかり向き合い、自分の内面が良くも悪くも、どこに向きやすいのかを
感情ではなく、理性で受け止め、より発展的なものに変えていける良い機会でもあるのです。
この世の人生は一度限り。
どうせ限られた人生であるのであれば、後悔のないように、
右往左往した無駄な時間を過ごさないように、
本物の覚悟と信念をもって、自分が良いと感じる道を一生涯貫く意識で
1つ1つのことを行動に移してみてはいかがでしょうか。
そして、本当に大切なこと、向き合うべきこと、行動に移すべきことは、
大きな渦の中にあるものではなく、遠くにあるものではなく、
意外なほど身近な日々の生活の中にこそ含まれているものだと思いますよ。
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Posted by 山野本竜規 at 17:56
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