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平和を祈る前に、命どぅ宝と叫ぶ前に、自分の命を大切にしましょう。
2015年06月23日

これから飛行機に乗り、沖縄に戻るところです。
今日の沖縄は、戦後70年の節目となる大切な慰霊の日。
僕も自宅に戻ったら、自分なりに心を込めて
黙祷をするつもりですが、ここ数日、その命の尊さについて
タイムリーな会話をする機会が多かったような気がします。
福岡滞在最終日だった昨日は、現在熊本で生活している友人に会うため
日帰りで福岡から熊本へ出かけてきました。
写真は熊本市中心部にある熊本城で、友人はこのお城の近くで働いており
久しぶりに心行くまでゆっくりユンタクすることが出来ました。
その友人とのことについては、また後日ブログでご紹介するとして、
その中での会話の内容にしても、この前の日曜日に開催された
福岡でのナカトリモチ勉強会の講演の内容にしても、
自分の命をしっかり感じながら、今を生きる大切さについて意識するようなものがほとんどでした。
勉強会の中で、参加者の方の中から色々な質問をお受けするのですが、
今回の勉強会が初参加のある方が、
「いつもブログを読んでいて、「崇高な信念」などの言葉が
山野本さんの表現で出てくるのですが、その崇高な信念って
どのようなことを指すのでしょうか。」というものがありました。
僕は普段から、それを大切にすることが当たり前の生活を送っているので
誰もが普通に理解できるものだろう・・・という
自分自身の勘違いというか、ある意味、その言葉の説明に対する
配慮が足りなかった部分があることに気づいて、とてもハッとさせられたのですが、
確かに、「崇高な信念」の意味するところ、それがどういうことなのかを
しっかり意識すること、自覚することは難しいことなのかも知れませんね。
「崇高な信念」の明確な定義はありません。
何故なら、人によってその信念は違いますから。
ただ、僕が感じている「崇高な信念」の意味するところは、
「命に代えてでも守り抜きたいもの。」または、
「たとえ今、この瞬間に予想外に死んでしまったとしても、
それをやり通すことによって、一切後悔がない一貫した生き方や価値観」を
毎日のように積み重ねていくことです。
それ以外の表現は一切見当たらないくらい、
ストレートに表現すると、つまりは、そういうことなのです。
僕がよくブログで、「もし自分の命が今日まで、明日までのタイムリミットだとしたら。」と
常に意識しながら生きていくことで、自分の中で本当に大切なもの、
大切な価値観、生き方が見えてくるものですよ・・・とお伝えしているのは、
まさに、このことでもあります。
*「今日で死ぬと思えば。~有限を意識する生き方~」
*「人生の有限を意識していますか。」
その命に代えてでも守り抜きたいもの、
また今、この瞬間に命を落としてでも一切後悔のない生き方や価値観は
人の数だけ存在するものなので、人によってその「崇高な信念」は違います。
ですが、本当に死ぬ思いをしたり、自分なりに「もし自分の命が今日までだったとしたら。」
ということを本気の本気で真剣に真剣に感じていれば、
それが何であるのかくらいは、すぐに誰でも理解できるはずです。
そして、その気持ちが中途半端ではなく本物の本気の真剣モードであれば・・・
もっと言います。
本物の本物の本物の、本気の本気の本気の、真剣、真剣、真剣モードであれば、
絶対に自分自身の軸がブレたり、情緒不安定になったり、
中途半端なことでいちいち悩んだり、苦しんだりしません。
何故なら、タイムリミットが迫っている・・・という危機感がありますから。
人生は有限であるにも関わらず、その貴重な貴重な時間を、
ちっぽけな自分の頭の中でグルグル悩み続けることや、
戸惑い右往左往し続けることに費やしたり、
情緒不安定さや、自分軸を失って迷走ばかりし続けることに費やすだなんて、
これほど無駄なこと、勿体無いことはありません。
これが出来ていないというのは、つまりは本気で本物の気持ちで、
そして真剣な想いで「今日までの命だとしたら。」と感じていない何よりの証拠であり、
何よりの中途半端な証拠でもあります。
ブレている時点で、常に情緒不安定でいる時点で、
そしていつまでも勝手に悩み続けている時点で
本当の意味で、自分の人生を真剣に生きていない証拠なのです。
ちなみに、そういう定義での僕の中の「崇高な信念」は、
「自分自身の生き方に嘘をつかず、正々堂々と生きていく。」というものです。
周囲が何と言おうが、世間の常識がどうであろうが、
自分が霊的世界の価値観から当てはめてみて
正しいと感じることは正しい、間違っていると感じることは間違っていると、
少なくとも自分自身だけは、その基準を大切にして
自分なりの人生を積み重ねていくことが、僕の中での崇高な信念でもあります。
毎度毎度のこのブログでの内容、勉強会の講演での発言、
霊視カウンセリング、そして僕自身の普段からの生き方そのものですね。
だから、いつ命が終わったとしても一切後悔しないと思うのです。
そして、今日は一部の沖縄の人にとっては、かなり厳しいメッセージになりますが、
前述したように6月23日という日は沖縄にとっては
戦争の悲惨さ、命の大切さをしっかり意識せざるを得ない大切な慰霊の日でもあります。
本当に平和を祈り、本当に戦争がダメだと感じ、本当に命が大切、
沖縄の言葉では、「命どぅ宝」(ぬちどぅたから)であるのであれば、
まずは、自分自身の心が、生活が、人生が平和でなければいけません。
「世界平和を祈る、(自分以外の)周囲の人たちを守る。」
聞こえはとても良いのですが、本当にそう感じて実践出来ている人たちは
敢えてそのようなことは言わないものですし、
そうなるためには自分自身の内面、人生が平和で心豊かでなければ
それはただの理想であり、口だけの妄想を語っているだけに過ぎません。
ご先祖様たちが戦争という理不尽な手段で、無理矢理
前途有望な人生を絶たれ、命を奪われた悲しい過去の教訓を
他の地域の人たちよりもしっかり理解しているはずなのに、
人口1000人あたりの死者の中での自殺者数の割合の高さを比べたデータがあるのですが、
2位以下を大きく突き放して全国ぶっちぎりのナンバーワンになっているのは、沖縄県なのです。
「平和が大切。命が大切。戦争はしてはいけない。」と
あれだけ声高に叫んで、身内にも周囲にも悲しい過去を背負った
生き字引のような人生経験を積まれておられる先輩方が
大勢いらっしゃる土地柄でもあるのに、
沖縄県は、うつ病になる人の割合も多く、自殺率も全国ぶっちぎりのトップ。
これって、とても矛盾していると思いませんか?
たとえ自殺までしなかったとしても、
いつまでもクヨクヨ悩み続けたり、迷い続けたり、情緒不安定に過ごして
自分自身の人生の軸がブレ続け、中途半端なネットワークビジネスや
新興宗教、怪しいスピリチュアルなどにはまりやすいのも、
他の地域の人たちに比べると、沖縄では圧倒的にその割合が高いと言えます。
大切な大切な慰霊の日に感じることは、人それぞれ違うと思うのですが、
もし、あなたが本当の意味で平和を祈り、犠牲になった多くの御霊の冥福を祈り、
命の尊さ、大切さを訴える、またはそれ自体を大切にしていきたい・・・と、
「本当の意味で」願っているのであれば、
まずは、自分自身の内面、心、魂、生活や人間関係、人生自体を健全に保ち、
自分自身の心が平和であることが絶対条件だと思うのです。
自分自身のことも満足に満たされていない人が、
そして自分自身のことすら満足に平和にできない人が、
いくら平和を訴え、命の大切さを訴えたところで、
それはただの口だけ、表面上だけの嘘になってしまいますよ。
今にも自殺してしまいそうな、情緒不安定な人が、
「命は大切です。平和は大切です。戦争は絶対にしてはいけません!」と
必死に訴えたところで、
「お前に言われたくないよ。まずは自分の命、自分の人生を大切にしろよ!」と
まっとうな意見を返したくなるのが普通の心情ではないでしょうか。
平和を祈るのは当たり前、戦争をしてはいけないのは当たり前、
命を大切にしなければいけないのは当たり前のことです。
でも、自分の人生を平穏に保つ努力をしない人たちは、
その時点で、自分自身の内面で戦争を引き起こしているようなものなのです。
言っていることと、やっていること、実際の生活が
あまりにも正反対で矛盾している人たちも多くみかけて、
僕は沖縄で慰霊の日を迎えると、
ただ純粋に平和を祈り、犠牲者の御霊に敬意を払い、命の大切さを
本当の意味で理解している人たちは、果たしてどのくらい存在するのか、
いつも疑問に感じてしまうところです。
勿論、この日は特別な日なので、僕自身も心を込めて純粋に
平和を祈り、犠牲になった人たちへ思いを馳せることはします。
ですが、それ以上にやるべきことは、
先ずは自分の心、魂を粗末にしていないか、
自分の内面が戦争のように混乱して迷走したり右往左往していないかどうか、
そして、今日、命を落としたとしても、それで後悔のない生き方が出来ているかどうか・・・ということを
毎分、毎秒、全ての言動に意識を向けて生活する、その生き様を積み重ねていくことであり、
こういう生きている姿こそが、本物の平和に対する祈りであったり、
口だけではない、表面的ではない
「命の尊さ」「ぬちどぅたから」を実践することではないかなと思うのです。
きっとこのブログをご覧になりながら、
一部のアンチの人たちは、「そんなことはない!」「祈るのが何が悪い!」と
チムワサワサ(心が錯乱)していると思うのですが、
何度でもハッキリとお伝えします。
正々堂々と「平和を祈る、命が大切、戦争はダメ」ということを
本気の本気、真剣中の真剣に考えて、その生き方を示すのであれば、
口だけではなく、表面的ではなく、
まずはその軽い口を動かす前に、言葉でうんちくを語る前に、
その姿勢を、あなた自身の平和で穏やかで心豊かな生き様で示して下さい。
中途半端にうじうじ悩み続けていたり、
自分の軸から外れて右往左往しているのも、ご先祖様に対して失礼です。
*「悩みは暇だからこそ生まれるもの。~平和ボケから抜け出す意識を持ちましょう~」
あなたたちのご先祖様の中には、生きたくても生きられなかった、
自分のことで悩むことさえ許されなかった、
また自分の人生すらまともに生きさせてもらえなかった
不遇の時代の波に翻弄されて、そこに命を捧げなければいけなかった人たちが
大勢いらっしゃるのです。
そんな御霊が、今の甘ったれた時代の人たちを
あの世から眺めていて、どのように感じていることでしょうか。
「悩む暇があったら、しっかり前を向いて生きなさい。
自分たちは、その前すら、生きることすら許されなかったのだから。」
「自分軸がブレる暇があったら、しっかり今だけを見つめて生きなさい。
自分たちには、今という時間すら、自分のものではなく、お国のものだったのだから。」
「戦争がダメだと声高に叫ぶ暇があったら、
しっかりあなたの心を、人生を平和にする努力をしなさい。
自分たちは、毎日、毎日、死の恐怖と向き合って心の中も戦争だったのだから。」
「平和を祈る気持ちがあったら、命どぅ宝と本当に感じているのだったら、
自ら命を絶つような愚かなことはやめなさい。
自分たちは、生きたくても、生きられなかったのだから。」
僕には、霊的世界にいる戦争で犠牲になったご先祖様たちは、
常にそのように感じて、この世の人たちを見守り、導いているような気がしてなりません。
本当の祈りや、命の尊さ、平和の大切さは、
言葉や団体行動や決起集会などに依存して、それだけで「やったつもり」になるのではなく、
個人個人の平和な日常生活、幸せな人生を自ら築き上げていく努力を
生き様として示すことで、その実践自体が祈りであり、本物の想いそのものに繋がります。
そういう日常生活の実践があった上で、平和活動や集会に参加するのであれば
それはまっとうな平和への祈りであり、訴えに繋がりますが、
そのような「まっとうな」動機で参加している人たちは、全体の3割にも満たないことでしょう。
そのような意味で、あなたは本当に平和を祈っているのでしょうか。
命どぅ宝だと思っているのでしょうか。
戦争はダメだと思っているのでしょうか。
本当にそのことが分かっていれば、
何よりも先ずは自分の人生、命を大切にしますよ。
そしてウジウジ悩み過ぎたり、いつまでも右往左往するような
無駄な人生は決して送らないと思いますよ。
もし、あなたの命が今日までのタイムリミットが迫っているとしたら・・・。
命の大切さは、言葉ではなく、他の誰でもない自分自身の生き様で示すものです。
どうぞ、そのことを忘れず、本当の意味での
平和への祈り、命どぅ宝を実践なさって下さい。
Posted by 山野本竜規 at 12:33
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