山野本竜規の続・ナカトリモチ日記
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妄想の自分で生きるのか、現実の自分で生きるのか。~嘘はつけませんよ~

2016年07月27日

妄想の自分で生きるのか、現実の自分で生きるのか。~嘘はつけませんよ~先ほど夕方の散歩を終えて帰宅したばかりですが、
写真は、その散歩の途中の1コマ。

ちょうど夕日が良い感じに僕の身体の影を引き伸ばしてくれて、
足長おじさんみたく、かなり長身に映って見えて、
「これが現実だったら、どうなのだろう。」と、
しばしアホらしい妄想をしてしまいました(笑)。

まぁ、妄想に浸る時間があるというのは、なんとも平和なことですし、
妄想をしたとしても、すぐに飽きてしまうため(汗)、後ろ向きに眺めていた影とさよならし、
また踵を返して散歩を続けて帰宅しました。

僕の妄想の場合、ほんの少し視点がズレており、
「足が長かったら、少しはモテるだろうか・・・。」ではなく、
「足が長かったら、今よりも高い場所から色々な景色が見えるんだろうな。」という憧れのほうが強く、
でも結局はすぐに、
「まぁ、これも自分に与えられた身の丈なのだから、その景色を楽しんでいこう。」という
単純な思考回路で、それ以上は複雑にあれこれ考えることが出来ません。

勿論、足が短い、身長が低いという現実が全くコンプレックスになっていない・・・というと
そうでもなく、やはり「身長が高いほうが違った景色が見えるだろうな。」と思うので
それは、それ。

ですが、今更足を長くすることも、身長を伸ばすことも出来ないため、
この点に関しては「自らが選んできた宿命の1つ」として受け入れるのみです。

ちなみに、霊的世界の真理であるスピリチュアリズムから捉えると、
現在の容姿(整形を除く)は、この世に生まれて来る前に、
自らの学びに合った肉体を自分の意志で選んで生まれてきているという大原則があります。

モデルのような整った顔立ち、恵まれた体格の持ち主であれ、
僕のように典型的な日本人顔、身長が低く足が短い農耕型の体格の持ち主であれ、
全て自分で選んで生まれてきています。

「えぇ!?だったら、生まれて来る前に、もっと美男美女に生まれる家系を選んでいたよ!」と
物申したくなるのも十分承知の上なのですが、
この世に生まれてきて、既に備わっているもの、
たとえばそれが、国籍であったり、両親であったり、その両親から受け継ぐDNAであったり、
貧乏なのか、お金持ちなのか、男か女か、はたまその中間なのか、
そして自らの基本的な容姿の部分に関しては、
それらが全て「自らの人生の学びになる。」と判断し、生まれて来る前に決めてきたことなので
自分で決めたのだから、仕方ありません。

勿論、そんなこと、この世におぎゃ~と生まれた瞬間に全てその記憶は消されてしまいますから、
「なんで、もっと美男美女に、お金持ちの家庭に、優しい両親、家族の元に生まれなかったの?」と
自分でその環境を選んで生まれてきたはずなのに、その環境や自らの容姿などを
責め立ててしまうケースもよくありますが、この真実さえ理解していれば、
ある程度のことは、「まぁ、これも仕方ないのかな。」と
自分で自分を受け入れることが出来るのではないでしょうか。

だからと言って勘違いして頂きたくないのは、
僕がよくこのブログでお伝えする「レリゴーブス」のように、
「ありのままが一番!」と何の努力もせずに、女性であれば自然体を勘違いして
然るべき場所で化粧もしないのは、ただの怠け癖が出ているだけで
周囲を不愉快にさせますし、
男性であれば、自らの身体を清潔にする努力を怠るのも、これまた不愉快。

基本的な容姿や性別であったり、国籍や家庭環境、親のDNAなど
この世に生まれた時点で変えることが出来ない環境を、「宿命」と呼びます。

ただ基本的な宿命は変えることが出来ませんが、
おぎゃ~と生まれて、ある程度自立できるようになったあとは、
その宿命を基礎にして、いかようにでも努力次第で自らの人生をアレンジすることは可能です。

この努力の部分、アレンジの部分を「運命」と呼びます。

たとえば女性の身体、男性の身体で生まれたけれど、
肉体の性と心の性が一致しない性同一性障害などは性転換も認められていますから、
その後、全ては難しかったとしても肉体的な変化を遂げることは可能です。

これは与えられた環境をバネにして、更に自分らしく生きるための努力の部分で、
こういう人たちはしっかりと自分の人生は、他の誰でもない
自分自身で築き上げていける力のある人だと思います。

また容姿に恵まれない、たとえば顔の造りが不細工、ブスだと感じるのであれば、
人に好印象を与えるメイクや明るい表情を作る努力をすることが出来ますし、
容姿で他の人に敵わないのであれば、昔からよく言われているように、
その他の器量の良さとか、愛嬌の良さとか、性格の部分で努力改善出来ることは
いくらでもあります。

まぁ、僕も完全に後者のタイプなのですが、身長を含めた容姿に関しては
ある程度、自分の身の丈を知った上で努力出来る部分はするけれど、
その逆で自分が与えられている環境の中で出来ること、磨くことが出来ることは、
どのようなものなのだろうか・・・と常に考えているような気がします。

僕はよく勉強会の講演などで冗談っぽく、
「身長は低いが、態度はデカイと言われます。」と自己紹介することがありますし、
放送局のアナウンサーとしてテレビ画面に出ていた頃から、
実際に直接会う方々から「もっと大きな人だと思っていました。」と言われることがありました。

まぁ、ブログでの印象も「生意気」だの「偉そう」だの「上から目線」だの、
アンチからはそのようにしか受け止められていませんし(笑)、
実際、本当にその通りなので否定もしませんが、
生き方自体が等身大なため、実際の肉体的な見た目よりも
より大きな存在に映ってしまうことがよくあるそうです。

学生時代の友人たちからもよく言われていたことなのですが、
「実際の身長は低いのに、存在は大きく感じるから、見た目も大きく見える。」ということを
お世辞抜きに、よく言われていたのを思い出しました。

まぁ、この頃から態度がデカかった・・・と言えばそれまでなのですが、
これは大人になって何を意味しているのか、色々な人たちと会う度に考えることがあると、
どうやら肉体的なものではないらしい、その人が持つ「華」と呼ばれる部分ではなかろうか・・・と
素直に思えるようになりました。

自分で自分のことを「華がある」と表現するのは、なんとも図々しい話かもしれませんが、
霊的世界の専門用語に置き変えると、
これを魂の強さ、弱さ、オーラ(霊体)の強さ、弱さという表現になります。

要するに魂の強さであったり、霊体の強さという意味で、
その人らしさ、その人の存在自体が、見えないかも知れないけれど、
目の前で関わる人たちに何かしらの形でしっかりと伝わっている・・・ということです。

「霊体の強さ、弱さ」というのは、容姿のように生まれた時から備わっている・・・というよりは、
この世に生まれてきて、その人が何を経験し、何を感じ、何を糧にしてきたのかという
運命的な要素が強いため、ここの強弱というものは、
本人の努力次第、学び方次第、生き方次第でいかようにでも変えていけるものでもあります。

その強弱の差の根本的な違いは、
肉体的なお飾りではない内面的な部分に、自らの経験が加えられ、
その都度、それを自分なりの自信に繋げてくる創意工夫を積み重ねてきたかどうかという
1点に限ると思います。

人間100%の自信をもってしまうと、ただの勘違い野郎になってしまうので
せいぜい70%くらいで丁度だと思うのですが、
だからと言って、いつまでも反省ばかり、いつまでも「自分は出来ない」「ダメな人間だ。」と
叱咤激励しているつもりで思いっ切り自己否定ばかりして生きるのも、
等身大の自分をしっかり見つめられない、つまりは認められない原因の1つになっていることを
理解しておかなければいけないと思います。

自分が与えられた環境の中で、努力して変えられる部分と、
いくら努力しても変えられない部分があるのが普通です。

いつも「足りない、足りない、まだ足りない。」と自分で自分の首を絞めてしまう生き方が
悪いとは思いませんが、基本的には苦しい生き方なんだろうな・・・と感じます。

その「足りない」が本当に努力をして補える足りないなのか、
それとも、いくら努力を重ねても補えない宿命の領域の足りないなのか、
このあたりをしっかりとその都度、見極める力があれば、
人は自分に与えられた本当の意味での最適な環境をしっかり受け止めて
前に進んでいくことが出来ると思います。

自分自身の人生に対する、その素直な心こそが、
自らの存在感であったり、「華」と呼ばれる部分であったり、霊体の強さに繋がり、
益々、良い人とのご縁、良い仕事や人生のめぐり合わせを
循環させてくれるシステムが、確実にこの世の中には存在すると思います。

そのためには、先ず等身大の自分をしっかり受け止めなければいけません。

過信するのもダメ、「足りない、足りない」と自己否定し過ぎるのもダメ。

そのバランス感覚がとても難しいとは思うのですが、
これが出来る人たちだってこの世には沢山いるのですから、
誰だって、本当の意味で自分に素直になれば、出来ることなのです。

態度のデカい、生意気な僕が言うとアンチどもは益々キーキー、ギャーギャーわめきますが(笑)、
自分の人生が上手くいっていない理由を他の誰かや事象に責任転嫁して
素直に惨めな今の自分の人生を認められないのは、本当に不細工です。

僕はスピリチュアル業界に友人はほとんどいませんが、
このスピリチュアル業界にしても、治療業界にしても、カウンセラー業界にしても
やっぱり、表面上だけは良い言葉を使い、清く正しい良い人物を演じる
詐欺師のような胡散臭い輩ばかりで、本当にウンザリしてしまいます。

何度もお伝えするように僕は、これらの業界の輩から
よく悪い意味でのリアクションを起こされることが多いのですが、
こういう馬鹿たちが、僕をディスる時って、見事なまでに
綺麗な言葉で、良い人を演じたまま、正義感たっぷりに物申すので、
これが本当に狡賢くて、汚らしいし、こういう輩が一番大嫌いだと常々感じています。

正直言うと、ただのやっかみ、僻み、生理的に受け付けないだけで、
「お前のその考え方が嫌い!」「お前の存在が鬱陶しい!」「否定されて悔しい!」が本音なのに、
それをわざわざ、あくまで善人を装って「神様の世界では。」とか
「スピリチュアル的には。」とか、「人のことをあれこれ言うのは。」などと、
もっともらしい言葉を使って、そのうっぷんを晴らそうとする・・・。

だったら、正直に「お前が嫌いなんだよ!」「否定されて悔しいんだよ!」と
その場でぶちまけてしまえばいいのにねぇ(笑)。

そんな気持ちは誰にでもあるはずなのに、それを隠して
あくまで良い人物を演じて、その良い人物になりきった言葉で
あれこれディスってこようとするのですから、詐欺師以上に本当に性質が悪い。

だから僕はスピリチュアル業界、治療業界、カウンセラー業界に蔓延る
似非良い人、善人ぶった馬鹿どもが大がつくほど大嫌いなのです。

勿論、人が持つ感情というものは、いつでもどこでも垂れ流しにしていいという訳ではありませんし、
僕もこれでも言葉を取り扱う職業をしていた人間なので、
その言葉を発することで、どのような影響が出てくるのかくらい、馬鹿じゃないので分かりますよ。

*「中途半端な言霊ごっこ、良い人ぶる人生は不細工&不幸です。」
*「歯の浮いた言葉、生き方はつまらない。」

ですが、等身大の自分から発せられていない言葉にしても、生き方にしても、
やはり無理があるというか、嘘っぽくて空回りしているのを、
見抜く人たちはしっかり見抜いているものなのです。

等身大で生きる積み重ねというのは、たとえ言葉に出さなかったとしても、
何かしらの表現に変えなかったとしても、
その人の存在感の強弱にそっくりそのまま良くも悪くも表れてくる部分ですから
絶対に嘘をつくことが出来ません。

妄想の中で生きるのではなく、演じた自分の中で生きるのではなく、
本当の意味で自分らしい生き方を積み重ね始めた時、
あなたの本当の存在感が表に出てくるものだと思いますよ。

まぁ、どちらにしても、僕は足は長くなれないし、身長も高くなれないし、
この生意気な性格は変えることが出来ませんから(笑)、
これらはしっかり受け入れつつ、
自分が伸ばせる部分をしっかりと伸ばしていければいいな・・・と感じています。

それにしても、最近、自分に嘘をつく人たちが多くて困ったものだなぁ、本当に。
僕にとってはあまりご縁のない人たちなので、
どうぞ、ご自身でその間違いに気づくまで失敗を繰り返して下さいな。



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