山野本竜規の続・ナカトリモチ日記
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そんなにいびつな人間関係にしがみつきたいの?

2024年06月03日

そんなにいびつな人間関係にしがみつきたいの? そんなにいびつな人間関係にしがみつきたいの?

沖縄地方、今朝くらいまで気圧の変化で
頭と体がどことなく重い日が続いていましたが
今日の昼過ぎくらいから天気も回復し、梅雨の中休みで
爽やかな1日となり、随分、身体もラクになりました。

怠かったので手抜き料理で市販されているチャプチェを
野菜と一緒に炒める際、少し前にテレビ番組で紹介されていた
ピーマンの種の取り方に挑戦してみました。

ピーマンのヘタの部分にペットボトルのキャップを軽く押さえると
綺麗に取れるとのことですが、軽くどころか男性の力でも強く押さなければ
なかなかヘタが取れず「全然、ラクじゃないじゃん。」と。

まぁ、結果としては成功と言えば成功ですが、
「これだったら、わざわざキャップを用意しなくても、手でやったほうが
スムースで、面倒臭くないかな。」という結論に至りまして、笑。


もともと手先が不器用ということもあり、小さな道具などを使って
何かしらの作業をするというのが苦手な性分ではあるのですが、
人の習慣、習性って、そう簡単に変えられるものではないのだなぁ・・・と。

「画期的な小道具を使うより、包丁と手でさっさと種を取ったほうが早いや。」となり、
一度は新しいやり方に挑戦してみるものの、
こればかりは、どうしても慣れたやり方のほうがラクだし、マシだと思ってしまいます。

閑話休題。

そんな面倒臭がりの僕がお伝えするのも何なのですが、
この「慣れているものは、なかなか変えられない」という事象は、
どのようなケースであれ、良くも悪くも、
その人の発展を止めてしまう危険性を孕んでいることもあり、
その逆で、「無理に変えなくてもいいよね。」となるケースもあり、
こればかりは本当に複雑で難しい課題だなと感じることがあります。

どういうことかと言えば、
以前、とある沖縄のカウンセリングの仕事で、相談者から
「今、私が付き合っている人間関係(グループ)は、
第三者のあなた(僕)から見てどう感じますか?」と尋ねられたことがありまして・・・。

正直なところ、「そんなこと、自分で決めたらいいのに。」というのが
僕自身の素直な感想なのですが、
とは言え、地元沖縄の知り合い(友人ではない)ですし、その人間関係の構図も
よく知っている人たちだったので、
「あくまで第三者としてお答えします」という形で、その判断を正直にお伝えしたことがあります。

個人的にこのような案件というものは、本来自分で決めることだし、
第三者から意見を聞いたところで最終的に本人が良しと決めた答えしか
実行できないのは百も承知なので、本当にどうでもいいというか、
もし仮に僕がプライベートで、このようなことを聞かれたとしたら
一切、知らないふりをするか、黙っておくことでしょう。

まぁ、カウンセリングで仕事ですから、その際は、
あくまで第三者の意見として淡々とお伝えするのみでしたが・・・。

そして、その時のご質問に戻りますが、結果から言えば、
どこからどう見ても、その時のその人にとっては、色々な側面からも
ダメージが大きなグループであり、発展的ではない人付き合い。

もっと言えば、そのグループの人たちから都合よく利用されている空気が
はっきりと伝わってきましたので、それも正直にお伝えしました。

薄々は本人もそのことに気づいていたみたいですが、
第三者からハッキリと、そのいびつな関係性を指摘されると
さすがにショックだったのか(だったら質問しなければいいだけのことなのに、汗)
自身を納得させるように、
「そうか。じゃ、少しずつあのグループとは距離を置かなきゃね。」と
必死に受け止めようとしていたのが約1年前のこと。

つい最近、偶然、その人のSNSが僕のタイムラインに流れてきたので
ふと流し見してみると、元の木阿弥というか、
やっぱり、都合良く利用されているグループと今でもベッタリで
「いざと言う時に頼りになる友人たち」というような内容を投稿しており、
他人事ですが、「あーぁ。」という感想にしかなりませんでした、汗。

つまり、人間というのは、そう簡単には変わることが出来ないということです。
それがいくらダメな人間関係、人付き合いであったとしても。

このケースと同類にしていいのか分かりませんが、
それはまるで怪しいマルチ商法や新興宗教、自己啓発などに傾倒して
洗脳された状態の人を諭すのと同じ無力さだと感じるのです。

最終的には、周りの第三者が強く諫めても、
その本人が痛い目に遭ったり、辛い思いをして、結果的に
洗脳から離れる強い意志を自身で持つ瞬間が訪れない限り、
一生涯、その「慣れた関係性」にしか留まることが出来ないという。

せいぜい周りが出来るのは、冷静に淡々と、
「それは違うと思うよ。」と一度は客観的に否定してあげることくらいです。

それでショックを受けようが、逆ギレしようが、
そこはこちら側が預かり知るところではなく、相手側の領域であり、
相手側の心の問題なので、手出しすることは出来ません。

また「あの人を洗脳から救えなかった。」と、自身を責める必要も全くありません。

何度でも繰り返しますが、そこから先の領域は、
こちら側が預かり知るところではなく、
あくまで相手側が自分で判断するものだからです。

そして、良くも悪くも人と言うものは、自身が慣れているものに関して
それを手放す選択をするというのが、どのような事象であれ、
とても難しいものです。

手放して良いものと、そのまま維持して良いものの判断は
ケースバイケースで違ってくると思うのですが、
明らかにいびつな人間関係や人付き合い、一方的に骨折り損ばかりしている
関係性で、尚且つ、その本人が窮屈に感じているのであれば、
どのような理由があれ、少しずつ距離を置いてフェイドアウトしていくほうが
絶対にその人のためになるのは事実です。

事実だけれども、最終的にそれを決めるのは他の誰でもない本人自身なのです。
周りが手出しできる領域ではありません。

沖縄は横の繋がりがモノを言う世界で、
人と人の繋がりは特に大切にします。

僕はその文化が嫌いではなく、親しい間柄の人たちとは
程良い距離感でお互い支え合う関係性を維持していますが、
これが密になりすぎると、色々な問題が出てくるからこそ、
どのような関係性においても程良い距離感が大切なのだろうなと感じます。

ただそんな僕からすると、
都合よく意地悪なグループ(立派な大人だけれどね)の人たちに利用されて、
それに薄々気づいていながらも、そのグループの中にいることに
必死に安心感を得ようとする姿は、どこからどう見ても痛々しいとしか感じません。

「そこまでして、そんないびつな関係しか成り立たない
蛇の巣のような場所にしがみつきたいか?」と。

まぁ、それも含めて、僕自身、預かり知るところではなく、
全ては相手が決めたこと、相手が選んだ答えなのですから、
「あーぁ。」という残念さと、「どうぞご自由に。」としか感じません。

僕自身、慣れたものを急に変えることは、やっぱり難しいと思います。
ですが、もしそのことで必要以上に自身の生活や人生において
不都合が生じるものであるのであれば、それは自分自身で素早く判断して
切り離して、切り替えていく心の柔軟さだけは維持しておきたいなと
ピーマンのヘタを取りながら、自分自身に言い聞かせた夕食作りの時間でした。



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Posted by 山野本竜規 at 20:27 │心の在り方 (2,645)▼