山野本竜規の続・ナカトリモチ日記
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やっぱり、「今」しかないんですよね。~あなたは誰のルールに従いますか?~

2015年08月20日

やっぱり、「今」しかないんですよね。~あなたは誰のルールに従いますか?~ やっぱり、「今」しかないんですよね。~あなたは誰のルールに従いますか?~

昨日、普段友人たちとの連絡やちょっとしたコミュニケーションに活用している
フェイスブックを見ていたら、たまたま3年前の同じ日に
僕が投稿した記事が「3年前の今日の出来事です」みたいな形でお知らせされていて、
何をやっていたのか見てみると・・・。

ちょうどオーストラリアのど田舎で生活をしていた頃で、
3年前の8月19日(昨日)は、日本とは真逆の季節である南半球で
粗末な建物の中で毎日凍えて過ごすような厳しい日々を送っていたようです。

その辺に普通にいたワラビーやカンガルーの写真も掲載していて、今思い返してみても、
「あぁ、このワラビーの毛の色、真冬だったから真っ黒に近かったんだな。」とか
「そもそも普通であれば、ワラビーとカンガルーの区別もつかないだろうな。」など
当時の懐かしい思い出が一気に蘇ってきました。

ちなみに皆さんがよくご存知のカンガルーはカワイイイメージがありますが、
野生の場合、成人男性の背丈か、それより高い位デカくて
中には凶暴でボクシングをするように人間にケンカを仕掛けてくる
キラーカンガルーと呼ばれる個体もいたので、(何度か襲われかけました、汗)
意外に危険な動物でもあります。

それに比べてワラビーはカンガルーに比べれば大人しく、
しかも成人男性の背丈よりは一回り小さいので、近寄ってもそこまでの危険はありません。

冒頭の写真は僕はすぐにどちらか見分けがつくのですが、
これは完全にワラビーで、しかもこの写真のワラビーは野生のくせに
かなり人懐っこく、人間を見てもすぐには逃げようとしなかったので
よく仕事と仕事の合間の休憩時間に戯れていたほどの仲良しでした(笑)。

こんな海外のど田舎で、現代文明とは隔離された粗末過ぎる生活を送っていたのが
たった3年前の出来事だなんて、僕にとってはもっと遠い昔のように感じるので
なんだかとても不思議な気分です。

そんなことをつらつら考えながら、ちょうど昨日、8月19日は、
現在福岡で弟夫婦と一緒に生活している母の誕生日でもあったので
久しぶりに電話をかけてみることにしました。

母は7年前のヘルペス脳炎という病気の影響で、
意識不明の状態に陥りこん睡状態が続いたあと一命はとりとめたものの、
その後遺症で高次脳機能障害を患いました。

人によってその症状は様々なのですが主なものに
認知症に似た記憶障害や人格変化、日常の動作が鈍ったり、
味覚障害や、排泄のコントロールが難しくなる・・・などの症状として
表れやすくなります。

母の場合も、それらの症状と全く同じような感じで、
誰かに積極的に電話をかけるとか、日常会話、
特に直接会っていない誰かと電話で会話をする・・・という
当たり前のことも、あまり出来なくなってしまったため、
普段、特別な用事がない限り、こちらから連絡することはあまりありません。

たとえ電話で会話をしたとしても、
母は何を話していいのか途中で混乱してくるらしく、
1分か2分くらいで弟やお嫁さんに電話をバトンタッチしてくるほどでしたが、
弟夫婦と長く生活してくるようになり、積極的に会話をすることが増えたためか、
以前に比べれば、意識もはっきりとした状態で1~2分の会話であれば
電話でも大丈夫なほどまでになってきました。

普通の人たちからすると、電話で会話をして、コミュニケーションを取る・・・
ということが、ごく自然の当たり前の行為なのですが、
病気などの影響で、そのような簡単な行為ですら労力を費やさなければ
いけない人たちもいるものなので、
こういうことからも、普段から普通に話し、歩き、食べるなどの
基本的な動作をして生きていることが当たり前ではなく、
とても特別で素晴らしいことなんだな・・・と母を通して実感することがよくあります。

そんな母と電話で会話をしていると、
これまでは自分の年齢すらあまり分からず、さばを読んでいるのか、
それともまともに答えているのか、年齢を尋ねると「50歳」などと適当に言っていたのが
去年の誕生日あたりから、意識がハッキリしてきて
しっかりと自分の実年齢を答えることが出来るようになりました。

これも普段一緒に生活している弟夫婦や、毎日通っているデイサービスの
職員の皆さんが日々、人とのコミュニケーションを極端に嫌がるようになった母と
根気よく会話をしてくれているお蔭だと思っています。

昨日、改めて「お母さん、いくつになったの?」と尋ねると、
「うわ~嬉しい。誕生日覚えてくれていたの?お母さんはね、71歳になった!」と
元気よく答えてくれて、
元パティシエだった弟のお嫁さんが手作りのケーキを作って
皆でお祝いしてくれたことなどを嬉しそうに話してくれました。

僕たち家族にとって、母の介護問題では色々な苦労をしてきただけに、
今の生活スタイルにしても、母の状態にしても
ここまでベストで穏やかな環境は、もうこれ以上、求めるものは何もない位であり、
今のそれぞれの生活が本当に有難く感じています。

*「家族の病気、介護とどのように向き合うのか。」

僕も母の年齢を尋ねて驚いたのですが、ここ最近はよく「戦後70年」というキーワードを
あちこちから見聞きするものなので、
「あぁ、そういえばお母さんは、終戦の1年前、まだ戦争中に生まれたんだよな。」と
その歴史の長さを、おのずと感じずにはいられませんでした。

母はまだ赤ちゃんだったので戦時中の記憶はありませんが、
戦後、食べるものが少なくて漁師をしていた母のお父さん(僕のお祖父ちゃん)が
海産物を仕入れる代わり、農家にあるような卵とかお米などがあまり食べられず、
農家の人と物々交換をして稀に手に入った卵焼きは、ご馳走だった・・・ということを
母から聞いたことがあります。

終戦を迎えた年、母は1歳、既に亡くなった父は6歳で、
この人たちが戦争で亡くなっていたら、勿論、僕はこの世には生まれていなかった訳です。

両親共に愛媛県の出身なのですが、
愛媛県内でも終戦直前の数か月間は空襲が激しくなり、
かろうじて戦時中の体験を覚えている父がよく話してくれたのは、
真夜中に空襲があり、実家の目の前を流れていた小川が
ちょうど月明かりで反射していたため、それを民家の光と間違えたB29の爆撃機が
焼夷弾を落としたり、機銃掃射で川に銃弾を撃ち込んでいた・・・という話と、
広島に原爆が投下された当日の朝、愛媛県松山市の港からも、
きのこ雲が見えて、それを見に行った・・・という話。

同じ瀬戸内海を挟んだ向こう側で起こっている惨状をその時は想像出来なかったそうですが、
「もしこれが対岸の愛媛だったら。」と思うと、
子供ながらに恐ろしく感じた・・・という話もよく聞かされました。

戦争で亡くなるのも、生き残るのも、
その人の生まれ持った宿命の部分が大きいかと思いますが、
改めて父、母共に無事に戦火を逃れ、次の世代に命を繋いでくれたからこその
僕たちの人生があるのだな・・・と感謝せずにはいられなくなります。

霊的世界の見解では、このような理不尽な戦争で命を落とすのも、
ほとんどの場合は「宿命」、つまりは、それが
「生まれて来る前に自らが定めたこの世の終わり方の1つ」だと判断します。

当時の教育で、敵軍に殺されたり、辱めを受ける位なら
自ら自決の道を選ぶのは当たり前のことだったので、
このような動機から自決を選んだ人たちも、現代のような「自殺」には当たらず、
霊的世界に戻っても、普通の逃げの動機から来る
自殺のペナルティを課せられることはありません。

どちらにしても、このような厳しい時代を潜り抜けてきた人たちが身近にいることに
しっかり思いを馳せるだけで、
今、この時代、日本という国に生まれて、普通に生活でき、
家族や知人、他の誰かに看取られて亡くなるという当たり前の人生の終わり方が、
いかに恵まれたものであることなのか、容易に想像できるのではないでしょうか。

ちょうど昨日は母の誕生日でもあり、そして偶然、フェイスブックで
3年前のオーストラリア時代の生活の様子を目に触れる機会があり、
あの時、僕が感じていた気持ちが沸々と蘇ってくるようでした。

オーストラリアでは肉体労働の他に、エネルギーワークのために
色々な人たちのカウンセリングを担当したりしていたのですが、
そこでの生活も1年を迎えようとした時に、
「こんなところで、こんな生活を送っているのも無駄にはならないけれど、
今、自分の人生を冷静に見つめた時、果たして最優先すべき生活なのだろうか。
自分が後悔しないだろうか。」という想いが、とても強くなったのです。

また、そこでは本当に組織側の身勝手な理由から、
「途中でエネルギーワークをやめると大変なことになる。」
「出来ることならば、自分で決めた期間までいたほうがいい。」などと
勝手なルールを作って強制していたところもあったので
こういうことも僕にとってはかなり腹立たしいというか、
素直に従えない気持ちが強くあったのも事実です。

遠い日本で暮らす病気を患っている母のことを想うと、
「ここではエネルギーワークが一番大切、
ここでの生活が最優先というルールがあるし、皆、それを信じてやまないけれど、
もし、明日にでも母が亡くなってしまったら、僕は絶対に後悔するだろうし、
この人たちのルールに従って生きていたところで、それは言い訳にならない。
自分が後悔しない生き方、母との時間を大切にするのであれば、
やはり、こんなところでいつまでも周囲の人たちの
果てしない中途半端な自分探しのワークの手伝いなんかやってる場合じゃないよ。」と
そこで約1年過ごしたあと、翌年の5月の母の日に合わせて
周囲の人たちが引き留めるのを振り切って帰国したのです。

*「自ら過去世を見る、感じることに意義があるのか。~素人には限界があります~」

今でもこの選択肢は間違っていなかったどころか、
全員が右向け右の異常な状態の中で、1人、冷静に左を向いて
自分が正しいと感じる道に進んだのですから、
我ながら、天晴な選択をして実行に移したな・・・と思っています。

企業にしても、組織にしても、必要とあらばありとあらゆる口実をつけて
その人を慰留しようとしてきますが、
それは組織にとって都合が良い人間だからであり、
本当にその人の人生のことを考えての言葉ではありません。

「あなたが、皆にとって必要だから。」「あなたの存在が必要だから、もっとここに滞在すべき。」など
本当に都合の良いことを言われ続けましたが、
僕の心にはそのような中途半端で表面的なまやかしは一切届かず、
「じゃ、もし明日にでも病気がちな母が死んだら、誰か責任を取ってくれるの?」と
冷静に感じてみると、きっとここにいる誰もがそんな責任も取らないだろうし、
他人事のように上っ面で慰めることくらいしか出来ないだろうから、
やはり自分自身で、その決断を下して、一方的に離れるしか道はありませんでした。

結果的に、そのおかげで今のような穏やかな生活を送らせてもらっているので、
いくら周囲が決めたルールであろうが、その組織やグループの決まり事であろうが、
それを馬鹿正直に信じ込んで言いなりになって遂行するのも、
自分の判断で自分の道を選ぶのも、全ては本人の責任だということを
僕自身の普段の信条、生き方を通して
自分自身に対して、そして周囲の人に対して示すことが出来た
貴重なオーストラリアでの生活でした。

人は後悔するために生きているのではなく、
自分の人生や過去に後悔しないためにも、
今、自分が最大限何が出来るのか、何をやるべきなのか、
どの方向に進んでいくべきなのか、
もっと言えば究極は、「どういう生き方がしたい」のかを、
周囲の常識やルール、決まり事などに当てはめず、
他の誰でもない自分自身で決めて、動いていくことが大切です。

そのような大切な決断を他の何かに委ねるのではなく、
自分で決めて歩んできた道ならば、
必ずその先に、また新しい何かが待っているものなので
僕はやはり、周囲の価値観とかルールとか常識とか、
そういったものは本当に曖昧で当てにならないことも多く、
最終的には自分で全ての物事を決めて実行していける人こそが
心豊かな人生を歩めるチャンスをつかめる人なのだろうな・・・と感じています。

今、会いたい人がいるのであれば、明日では遅いのです。

今、しっかりコミュニケーションを取りたいと思う人がいるのであれば、
明日ではなく今、行動に移すべきです。

今、やりたいことがあるのであれば、明日以降という時間が
いつまでも続くと思ったら大間違いであり、
だからこそ、今しかそのチャンスがないのです。

そこで周囲があれこれ意見をしてこようが、
他人や世間の物差しで引き留めようが、
その人たちはあなたの人生の責任を取ってくれる訳ではありませんし、
所詮は全て雑音に過ぎません。

これが「今を生きる」「今を意識する」「今を大切にする」という究極の選択であり、
他の誰でもない自分自身が後悔せず、
心豊かに生きていくための唯一の方法だと感じています。

明日ではなく今、出来ること、やりたいこと、やるべきことは何なのか・・・。

ふと、終戦前に生まれた母の誕生日、
そして偶然目にした3年前のオーストラリアでの生活のことを思い出しながら
そのようなことを考えていました。


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