山野本竜規の続・ナカトリモチ日記
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個性を大切にする。その本当の意味とは・・・。

2014年12月12日

個性を大切にする。その本当の意味とは・・・。写真は、先日の福岡出張の際、
市内の移動などで利用した西鉄バス。

福岡を訪れたことがある方なら、誰もが一度は
この赤と白を基調にしたペイントのバスを
ご覧になったことがあるのではないでしょうか。

福岡出張などでこのバスを利用する際、
いつも個人的に「面白いな。」という現象があります。

それは、バスが信号待ちで一時停車する際、
その信号の一時停車時間が長い場合、
環境に配慮してなのか、それとも燃料を節約する目的なのか、
僕は機械的なことに関して門外漢なので定かではないのですが、
それまで動いていたエンジンを、全て切ってしまうのです。

それが信号の一時停車の度に繰り返されるのですが、
たとえば、色々な客が乗り合わせている車内で
友人同士や知り合い同士などが一緒の場合、
それが年齢性別関係なく、それまで元気よく会話をしていたにも関わらず、
エンジンが全て止まり、車内がシーンとなった途端、
何の前触れもなく、会話の途中だろうが、何であろうが、
一斉に静かになってしまうのです。

サラリーマン同士、主婦同士、学生同士など
それまで普通に会話をしていたのに、
エンジンの振動がストップして、車内が静まり返った途端、
それに呼応するかのように、全ての会話もストップするのです。

勿論、中には例外があり、小さな子供や
度胸の据わった図々しいおばさん集団などはそんな空気どこへやら、
完全に車内の静けさとは無関係に会話をし続ける人もいるらしいですが、
ほとんどの場合、静かになると思います。

あの、車内に漂うなんとも不思議で独特な連帯感というか、
ちょっと居心地の悪そうな微妙な空気というものは、
たとえ会話相手がいない1人で乗車していたとしても
その場に居合わせるだけで、「面白い空気だな。」と毎回感じてしまいます。

僕が生活している沖縄では自家用車があるので、
路線バスを利用した経験がほとんどなく、
その他の都市の路線バスでは、信号が赤の度に
エンジンを切るルールなのかどうかも分かりませんので
全国各地、全ての人が同じようなことを感じているのかどうか分からないのですが、
あの独特の空気というのは、個人的にとても面白く感じます。

「人(特に日本人)って、自分が意識している以上に、周囲の空気を読み取って
時と場合によって、それらに合わせて生活する習慣が身に付いているんだな。」と。

こういう他者に対する配慮というか、全体の空気に合わせる感覚というものは
良いほうに活かせば、いくらでも活かせるもので、
僕自身、こういう点は、とても誇りに思うべきところだと感じています。

ただ、何事もバランス感覚が大切で、
無意識のうちに周囲に合わせ過ぎるような人生を続けて
その度を超えてしまうと
「自分って何のために存在しているのか。」
「自分って生きている意味があるのか。」など
その人の存在価値を見いだせず悶々として、
おかしな思想や自己啓発団体、新興宗教にハマったり、
はたまたネットワークビジネスや、怪しい健康ビジネスにハマったり、
自傷行為や自殺願望を抱きつづけたり、
人によっては、過度なお酒、たばこ、買い物、セックスの依存症に陥ったりと
色々な弊害が出てきているのが、今の世の中そのものです。

結果的に、僕はこれらの現象、症状を、
「自分の人生に欲求不満な状態」と表現することが多いのですが、
そのような症状の原因は、
そういう不安を作り出す世の中の責任でも、他の誰かの責任でも何でもなく
最終的に、その清濁どちらとも目をそむけずに向き合うべき、
本人の生き方次第にかかっているのです。

誰でも理解できることですが、
自分の人生に満たされている人は、
ネガティブな動機から今すぐ死にたいだなんて決して思いませんし、
他人に対して必要以上の意地悪はしません。

国が悪い、世間が悪い、政治が悪い、あの人が悪い、家族が悪い・・・。

この世で上手くいかない理由を、自分が傷ついた理由を
他の何かに責任転嫁することはいくらでもできますが、
そこで、自分自身を振り返り、改善するところは改善して
前に進むことが出来なければ、
やはり、それは、現段階で、その人の立ち位置が、
そういうネガティブな群衆と同じところにあるということなのです。

ヘイトスピーチや色々な反対運動などがその典型ですし、
たとえそれに加わらなかったとしても、行動を起こさなかったとしても、
どちらかと言えば、そういう思考の持ち主というのは、
いくらでもわんさか存在するものです。

時には声をあげて反対しなければいけないこともありますし、
それらの全てが悪い訳ではありませんが、
もし、僕がそういうことを自らの意志で行うとしたら、
それこそ一生涯をかけて、それだけに人生を捧げる覚悟で
取り組んでいくことでしょう。

おおよその人たちは、そういう反対運動をお飾りとして、
普段上手くいかない自分の人生のストレス解消や
自分の内面を見つめて改善していくべき不安や怒りの原因の矛先を、
表面的な運動にすり替えているだけの場合がほとんどです。

そして、とても一時的であり、また不安や怒りや何かが出たら、
それに賛同し、参加する・・・。

もし、その想いが本物であれば、いつでも、どこでも、
どんな時でも、その運動に関して自分の労力を割いて生きているはずですが、
そういう本物の覚悟も、信念も何もない・・・。

ただ、国が悪い、政治が悪い、基地が悪い、全てが悪い・・・なのです。

僕はそういう群衆の中の1人になる人生は絶対に命を懸けてでも嫌なので、
自分なりの信念を大切に、自分の心豊かな人生を創造することに喜びを覚え、
そういう感覚の持ち主たちと共に生きていく道を選んでいます。

これは、とても極端なたとえかも知れませんが、
集団の力というものは良くも悪くも強力で、
個人、個人と接する分には全く問題がなかったとしても、
どこでも騒がしく横暴に振舞う中国人団体ツアー客などを
傍から眺めていて、心地良い気持ちになる人はいますでしょうか。

ですが、これと同じことを意外に時と場合によっては
誰でもやっている可能性があるのです。

もう12年以上前のことですが、僕は当時元気だった母と2人で
格安のイタリア周遊ツアーに参加したことがあります。

僕自身、ブランド品にはめっぽう疎くて関心がないのですが、
イタリアにしても、パリにしても世界的なファッションブランドや
その発信地として知られているために、
そのブランド品を求めて世界各地から買い物客が訪れます。

確か、ミラノでの出来事だったと思うのですが、
母がイタリアのブランドの財布を見てみたい・・・というので
そのブランド店の中に入ってみると、とんでもない光景が広がっていました。

バーゲンの時期と重なっていたため、
まるで近所のスーパーのタイムセールよろしく、
そのバーゲン品を買い漁ってギャーギャー騒いでいる買い物客で
ごった返していたのです。

本来であれば、高級ブランドショップなので、
そこに品位というか優雅な空気が漂っていなければいけないのですが、
そこで働く店員も、ガードマンも皆、全然品位がなく横柄な態度で
そのスーパーのタイムセールのような買い物客たちを扱っていました。

世界に名だたるブランド店の店員が・・・ですよ。

これは、店員やスタッフにも責任はありますが、
多勢に無勢で、どうしても、その群衆の中に埋もれてしまうもので
まさに集団の力に感染した形になります。

お店の空気を保つためにスタッフの力だけではどうにもならないこともあり、
そういう場の空気を作り出していた主犯格は
確実に、その場で集団で群がっていた、その買い物客たちだったのですから。

そして、その店員が英語で吐き捨てるように放った言葉を
今でも僕は忘れることが出来ません。

「こういう下品な買い物の仕方をするのは、み~~んな、日本人!もう最悪!」と。

僕も母も、あの異常な空間にいたたまれなくなり、
商品を見る気も失せて、1分もしないうちに
「お店出ようか。」と踵を返して、外の空気を吸いに行った苦い思い出があります。

あのブランド品を集団で大騒ぎで買い漁っていた現場の主犯は
確実に全て、このバーゲンの時期を目当てにやってきた多くの日本人観光客であり、
そういう集団、群衆の中の1人と思われるのは、
なんとも屈辱的というか、居心地の悪い想いをしたものです。

ちなみに口の悪いヨーロッパ出身の友人から言わせると、
「日本人にしても、その他の国の人にしても、ヨーロッパの街中で
若い娘がブランド品を身に付けて歩いていると、おおよそ売春婦か、
危ない仕事をしている人たちにしか見られないよ。」とのこと。

そのブランドに見合う内面の知性や品位が全く伴っていないからです。

僕になりにもっと意地悪なコメントを付け加えるとしたら、
たとえ年齢や社会的な立場が立派な大人だったとしても、
内面の知性や品位が伴っていない外見だけをブランドで着飾った
痛々しい人たちもたまに見かけますよね。

ブランドを着こなしているのではなく、完全にブランドだけが目立ってしまい、
その人が残らない・・・という残念な人たち。
まさに猫に小判、豚に真珠とはこのことかも知れませんね。

ちなみに僕はファッションに関しては一切何の感性も持ち合わせていませんので
(要するに無頓着だということ。)
いち、素人の独断と偏見の見解だということをご理解下さいね(笑)。

僕は人の見た目や持ち物だけで、
その人を品定めするような下品な生き方はしたくありませんし、
そこに関しては絶対に反対ですが、
人の生き様というものは、年齢を重ねれば重ねるほど、そっくりそのまま
その人の外見に表れてくるものなので、立派な大人であるのであれば、
自分の容姿、外見は、ある程度、自分で責任を持つべきだと思います。

そして、昨日のブログでもお伝えしたばかりですが、
「これは職業差別、女性差別!」と短絡的に批判できない
社会全体の風潮というものが存在するのも事実で、
そこを全て無視できるという訳でもないのです。

個人的にはあまり好きではないのですが、
特に欧米では、ホテルやレストラン、その他の公の場所などで
身に付けている服装や持ち物などで、
その人のおおよそのバックグラウンドを見定める習慣が身についています。

それによってサービスの質も違ってくるという、
まさにあからさまな違いが出てくるのですが、
これを差別と呼ぶのか、それともそれ相応の対応だと判断するのかは
人それぞれ。

ドレスコードのあるお店やホテルのロビーで、
Tシャツ、ハーフパンツ、サンダル姿で現れて、
「従業員のサービスがなってない!」なんて一方的に叫んだとしても
そこに何の説得力もないのと同じように、
その場には、その場に見合った空気というものが存在します。

そういう決まりや縛りの中で、いかにワンポイントの個性を演出したり、
自分らしさを表現できるのかが、その人の感性であり、
その人らしさに繋がっていくものです。

それはドレスコードなどの文化、習慣だけのことをお伝えしているのではなく、
群衆の中にまみれて、そこで不平不満ばかり言っていたとしても
何も変わることはなく、そこから脱却して自分らしい生き方を追求するほうが
人としては、どれだけ幸せなことなのかに気づく聡明さを持って欲しいのです。

僕自身、全てを外見だけで判断はされたくはありませんが、
身の丈に合った身なり、立ち居振る舞いを心がける意識は
今の日本人にはあまりないような気がします。

一時期、ブランド品を買い漁って世界中からひんしゅくを買った
日本人観光客のように、今ではそれが中国や韓国に変わっただけであり、
ネガティブな群衆の1人になるのも、ならないのも、
国籍、文化、宗教一切関係なく、最終的には、
その人の意識次第、人生の選択次第だということですね。

自分自身の個性を大切に、心豊かな人生を創造していくためには、
ネガティブな群衆から、自分自身の心と生き方が決別しない限り、
決してそこから離れることは出来ないと思います。

今、自分という人間が何を目指しているのか、
どんな生き方を良しとして心豊かに生きているのか、
色々な群衆を見ながら、感じながら、
自分自身の内面を見つめてみると、
また違った角度から、おおくの物事を捉え、
自分の人生に新しい風が吹き込んでくるものだと感じています。


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