山野本竜規の続・ナカトリモチ日記
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幸せは、どこにある?

2014年11月18日

幸せは、どこにある?ここ数日、海外に住む友人・知人たちから
まるで申し合わせたかのように立て続けに
沖縄の命の塩、ぬちまーすのリクエストがあり、
今日、午前中の仕事を終えて、それらを購入するために
そのまま海中道路を渡り、
宮城島のぬちまーす工場まで出かけてきました。

今回は、それぞれ違った国の3ヶ国で暮らす友人、知人たちへのギフト用と
自分自身で使うためのものを購入する目的でお邪魔しました。

特に、「今すぐにでも、どうしてもぬちまーす商品が欲しい!」と
リクエストしてきたのは、このブログで時々登場する
オーストラリア在住のオカマちゃんキャラのレンジ

先日、いつものように突然、何の前触れもなくメールを送ってきて、
「ワタシ、ぬちまーすと、肌に良いシルクソルトを買いたいの。
シルクソルトは、肌がスベスベになるから、まとめ買いしたいわ。」と
(というような口調で喋っているはず。)
何度も念押しをするように、シルクソルトをまとめて買って欲しいということ、
料理用のぬちまーすも欲しいということを、メールで伝えてきたほどです。

そのくらい、ぬちまーす商品が大のお気に入りになったようです。

去年の12月にレンジが沖縄まで遊びにきた時に
ぬちまーす工場も案内したのですが、
ぬちまーす商品を大変気に入って、オーストラリアまで持ち帰っていました。

ただ、現段階で、これだけ素晴らしい商品だったとしても、
オーストラリア国内では売られていないので、
どうしても欲しくて欲しくて、メールをしてきた・・・とのこと。

これくらい、ぬちまーすの素晴らしさを体感して
使っている海外在住の友人がいるのであれば、
多少、面倒だったとしても、それを送ってあげたいな・・・と思うもので
今回、レンジがリクエストしたシルクソルトとぬちまーす、
その他、レンジが女子高校生のようにキャーキャーはしゃぐほどお気に入り
日本のお菓子類を箱に詰めて、オーストラリアまで発送したばかりです。

幸せは、どこにある? 幸せは、どこにある?

幸せは、どこにある? 幸せは、どこにある?

レンジにしても、その他の国に住む友人、知人にしても、
わざわざ遠い外国から、ぬちまーすを買い求めてくるほど
その商品の良さを体感として知っている人たちなのですが、
逆に僕たち沖縄、はたまた日本国内で生活している人にとっては
灯台下暗しというか、これだけ素晴らしいモノがありながらも、
その良さが当たり前になっている、はたまた、その良さが理解できないこともあり、
改めて、ぬちまーすの素晴らしさを感じる良い機会になりました。

僕たち沖縄に住んでいる人間は、
直接工場に行けば、または街中のスーパーに行けば、
ぬちまーすは比較的簡単に手に入るものです。

また日本国内では、ネット販売があるので
注文のメールや電話さえすれば、
これまた比較的簡単に手元に届く便利な世の中です。

身近にある素晴らしいものが、あまりにも身近なので
それが当たり前になってしまいがちなのですが、
これが当たり前ではなく、こういう良いものと出会えたご縁があったこと自体、
とても恵まれていることだということを、
僕自身、ひしひしと実感しながら海外への発送作業をしていました。

これは、どんな事象にでも共通することなのですが、
普段、当たり前のように存在する人、もの、周囲を取り巻く環境というのは、
あまりにも当たり前過ぎて、それらに対する感謝の気持ちや、
そのこと自体が文字通り有難い、
とても恵まれた状況であることに気付きにくいものです。

それらを突然失うことになった時、または距離を取るようになった時、
ようやく、当たり前の日常の中では気付けなかった
それらの存在の有難味、素晴らしさを理解できるようになる場合も多く、
それだったら、早く、そのことに気付けばいいのに・・・と
傍から見ていて、もどかしく感じることもよくあります。

僕の家族のことで言えば、
僕自身、遠く離れて暮らしていた両親といつ死別しても後悔がないように
特にそれを何となく意識し始めた20代半ばくらいから、
とにかく時間がある時や、向き合える時は、
とことん両親と向き合うようにしたり、一緒に過ごせる時間を作ったりして
可能な限りのコミュニケーションをとるようにしてきました。

だから、突然父が亡くなった時も、
突然母が病に倒れ、認知症のような症状になってしまった時も、
僕には後悔がないので、全てを受け入れられる状態で
その時その時と向き合うことが出来ました。

ただ、長い間、両親と同居していた弟の場合はその逆で、
常に近くにいた親だからこそ、
普通以上に文句も言うし、大人になっても子供じみた言動を親にぶつけるしで、
その当時から、「もし、今、親がいなくなったら、これで後悔しないのかな。」と感じていましたが、
弟の場合は、案の定、今、当時感じられなかった経験を
今になって、それがいかに素晴らしい時間だったのかを
現実社会の厳しさを目の当たりにしながら生活しているように思えます。

これはこれで良い人生勉強だと思いますし、
それが良いのか悪いのかは別として、
もっと早くに、両親が普通に生きていることの有難さ、
家があることの有難さ、帰る場所があることの有難さを理解していれば
今のような心の負荷はなかったはずなのにな・・・と
老婆心ながら感じている側面はあります。

ただ、これは、僕自身が、兄弟だからと言って、どうこう出来る問題でもありません。

何故なら人は、たとえ家族であろうが、他人であろうが、
必要以上に関わる相手の人生に干渉することは出来ず、
その人の生き方や性格、生き癖を変えられるものではないからです。

今ある環境が、どれだけ恵まれているものなのか、
今、近くにいてくれる人たちの存在が、どれだけ有難いことなのか、
生きる糧に繋がっているものなのか、
文句を並べる前に、不平不満を漏らす前に、人生に挫折する前に、
今一度、感じてもらいたいのです。

仕送りをしてくれたり、大人になってからでも
故郷の食べ物などを送ってくれる
心身共に健常な状態の親がいるだけで、どれだけ心強いものか。
そして、ゆっくり帰る自宅、実家があるというのは、
どれだけ素晴らしいことなのか。

僕には、既にそういう親も今はいませんし、
帰る実家もありません。

父は亡くなっていますし、母は元気ですが認知症ですし、
実家というものはなく、
僕の居場所はやはり、今の自分の沖縄の自宅になります。

一見すると、とても寂しい生活のように思われるのですが、
僕の場合、全ての家族が健常で良い状態であったであろう、20代の頃に
僕は「この先、いつまでこういう有難い状態が続くか分からないから、
絶対に悔いがないように、家族とのコミュニケーションを取っておこう。」と
悔いがないほど、色々なことと向き合ってきた大切な思い出があるので、
それを感じるだけで、もう十分です。

要するに、やはり後悔がないので、その思い出や体験を糧にして、
今という時間、そしてそのほんのちょっと先のことを見据えて
発展的に生きていくことが出来ます。

帰る家があるのが当たり前、親がいるのが当たり前、
家族がいるのが当たり前、親戚がいるのが当たり前。

だからこそ、それらに対する感謝の気持ちよりも
日頃の不平不満が多く出てくるものだと思いますが、
ほんのたまにでもいいので、シュミレーションをされてみて下さい。

もし、今すぐに周りにある当たり前が、自分の前から姿を消したとしたら・・・。

それが家だったとしても、人だったとしても、その他の事象だったとしても、
それらを失った時に、それがいかに有難いことだったのか、
それがいかに特別なご縁で繋がっていたものだったのか、
それがいかに素晴らしいものだったのかを後から気付くより、
今、それらがあるうちに気付いて、一瞬一瞬に想いを込めて生きていったほうが
絶対に人生は得だと思います。

久しぶりにぬちまーす工場に立ち寄って、
ふと、そのようなことを感じながら、身近にある幸せ、恵まれた環境に
感謝の気持ちが湧いてきました。

やはり幸せは遠くへ探しに行くものではなく、
既に周囲にあるもの、自分の中にあるものに気付いていく作業の過程にこそ
ひっそりと、だけど変わらず居続けているものではないかな・・・と感じました。



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