山野本竜規の続・ナカトリモチ日記
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報われない人生は理不尽ですが、真っ当であることは素晴らしい。

2020年09月03日

報われない人生は理不尽ですが、真っ当であることは素晴らしい。

沖縄では昨日で旧盆3日間が終わり、今日からまたいつもの生活が始まりましたが、
最終日のウークイの日、綺麗な夕焼けを眺めながら、ふと感じたことを呟いたのが
上記の内容でして。

別に深い意味はないのですが、僕が普段から感じていることそのままで、
どんな仕事にしても、人間関係にしても、プライベートでの様々なことにしても、
正直にひたむきに生きている人たちが、
これまた真っ当に報われる世の中であって欲しいものだなと願う気持ちがあり、
それをそのまま表現した内容です。

逆に言えば、これがなかなか難しいことで、そう簡単には上手くいかないからこそ、
切に願う気持ちが出てくるのでしょうけれど、笑。

僕にも10代、20代、30代と、それぞれの生活環境の中で、
「もうお手上げ。万策尽きた。自分ではどうすることも出来ない。」という
人生の局面と否応なしに向き合う機会が幾度もありましたが、
お手上げ状態の時って、本当に途方に暮れるものでもあります。

「一体、これ以上、何を頑張ればいいのだろうか。」
「一体、これ以上、何をやれと言うのだろうか。」
「一体、これ以上、どこまでやれば分かってもらえるのだろうか。」

時代によって、生活環境によって、その向き合う事象は異なりますが、
常にこのような悶々としたようなものが目の前に立ちはだかって、
自分の力ではどうすることも出来ない壁を目の前に、途方に暮れるという出来事。

本当に万策尽きて、やるべきことをやっていて、
もうこれ以上、他に出来ることがないという位、やるべきことをやったにも関わらず、
その結果が思うようなものでなかったり、周りから理解されないだけでなく、
時にはそれが誤解となって、益々、「今まで何のために頑張ってきたのだろうか。」と
無力感に囚われるような感覚・・・と言えば、伝わるでしょうか。

僕自身もそうですし、ナカトリモチとして
色々な人生の局面と対峙しておられる方々と接する機会があると、
やはり、普段から正直に、ひたむきに生きておられる方なのに、
その結果が表立って出て来なかったり、逆に理解されなかったり、誤解されたり、
真っ当な報われ方、評価を得られない理不尽な状況に、
もう万策尽きた・・・と途方に暮れておられる姿に触れて、
個人的な情としては、とても心苦しく感じるものです。

でも、僕はこういう時こそ、その人の本当の真価が問われていると常々感じており、
僕自身も、その都度、尊敬する人生の先輩方に同じようなことを教えられてきたため、
やはり、いくら理不尽であろうが、途方に暮れるような出来事と直面しようが、
それでも一歩、一歩、自分なりに前を向いて進んでいく他、道はないと思っています。

20代の頃、大学卒業直後に入社した会社では、
新人ゆえの実力不足、社会経験不足もあって、
その不器用さから、他の先輩に仕事の手柄を横取りされたり、
その横取りを見て見ぬふりをする他の社員の人たちに心底嫌気がさしたことがありました。

「折角、自分の足で苦労して取材して、
取材相手と何度も話し合い、信頼関係を深めて、いざそれが表に出ようとしたのに、
それまでの地味な苦労の積み重ねは避けて、
美味しいところだけ、目立つところだけを横取りされた。
しかも、その横取りに乗っかる周りの大人たちも多くて、一体、この会社はどうなっているんだ。
一体、これまでの頑張りは、何だったんだ?」と。

まぁ、マスコミに限らず、こういうことって、
本来ならあってはならないことですが、どのような業界であったとしても、
また仕事ではなくとも、色々なプライベートのコミュニティでもよくあることです、汗。
多くの人が集まって何かをやるというのは、そういうこと。
調子の良い卑怯な人もいれば、損な役回りを誰にも気づかれないままやる人もいる。

真っ当に真面目に働く人間もいれば、ずる賢く、良いとこどりだけをして出世するような
卑怯な人間もいて、あとはどちらの生き方に傾くのかは、その人次第。

・・・と、割り切っているつもりでも、やっぱり理不尽な想いは消えないんですよね。

どんなに頑張っても結果が出ない、むしろ頑張ってもその良い結果や手柄は
先輩や上司に横取りされる。
それなりに不器用でも真面目に仕事を積み重ねていく中で、
真っ当に報われないことほど、やるせない気持ちになることはありません。

そんな時、僕が所属していた組織ではない、
別の組織のトップの方の取材をする機会があり、
その方がとてもいい言葉を話して下さったんです。

僕に・・・ではなく、その組織で働く新入社員の人たちに。
僕はその入社式を取材する立場に過ぎませんでしたが、
20年以上経った今でも、あの時の取材を忘れることが出来ません。

「人は組織に所属して働いていれば、必ず理不尽なことが起こります。
というより、理不尽なことだらけです。真っ当に働いていても、
無能な上司や先輩がいたら、それを真っ当に評価してくれないものですし、
そういう運、不運もある。だけど、決して腐らないで下さい。
どんなに理不尽でも、正しい仕事をやり続けていれば、いつか必ず、
誰かがそれを見てくれて、報われる時が来ますから。だから決して腐らないで欲しいのです。」

20代の若かりし頃、直接、僕にかけられた言葉ではないにしろ、
ここまで正々堂々と、若手の気持ちを汲み取って励まして下さる大先輩がいてくれて、
どれだけ救われたことでしょうか。

同じ職場という訳でもないし、それまで全く存じ上げない人でしたけれど、
その言葉で、どれだけ報われない悶々とした気持ちが救われたことか・・・。

あれから特に社会人として理不尽なことに遭遇する機会があると、
僕は必ずこの言葉を今でも思い出すようにしています。

不器用で美味しいところばかり横取りされ続けたその会社では、
確かに報われない、真っ当な評価は得られなかったかも知れませんが、
ここで1つ大きな変化があったことは事実です。

例え仕事を横取りされようが、真っ当な評価が得られなかろうが、
そんな内部のドロドロした内情なんて、視聴者には一切関係ない。

だったら、とりあえず放送局の目的の1つである、
良い情報提供をすることだけに専念して、
自分が丁寧に取材した内容を自分で伝えなくても、
横取りした先輩アナウンサーやディレクター陣に伝えてもらえればいい。

釈然とはしないけれど、本来の目的がどこにあるのか自分の中で気づいてからは、
もっと伸び伸びと自由に、やるべき仕事をこなせるようになり、
そこでの経験が、その次、そのまた次の転職、組織での技術貢献に繋がったのは
紛れもない事実です。

あの時、そのまま腐っていたら、きっと今のような人生はなかったことでしょう。

でも、こういうことって手を変え品を変え人を変え、
20代では難しかった課題が30代で、30代前半で難しかった課題が30代後半で・・・と、
やはり似たようなことは、いくらこちらが真っ当に生きているつもりでも、
目の前に現れるものです。

何の経験もなかった若い頃と比べて、今はその対処方法をある程度
体験として知っているので、当時のような無力感、やるせなさはありませんが、
それでもやっぱり、理不尽に感じることは変わりありません。

「毎日ひたむきに、正直に生きている人たちが、真っ当に報われ評価される
当たり前の世の中であって欲しいな。」と。

それが難しい世の中だからこそ、
あとはどちら寄りの生き方に傾くのか、それこそ、そこで人の真価が問われるものだと
常々感じています。

あと、本当に万策尽きて、どうにもこうにも解決方法が見つからない、
お手上げ状態となった時は、一度、それらの環境から
物理的にも精神的にも離れてみることをお勧めします。

1日、2日の休みがあるのであれば、そのことを考えなくていい場所、
空間に現実逃避するだけで、
やがて、その場にいた時には気づけなかった周りの空気や、
その場だけが一生涯の自分の居場所ではないという覚悟、
いざという時は、他にも何かしらの方法、人生の選択肢があるという視点が
芽生えてきますから。

*「強い拘りは人生を停滞させる原因の1つです。~台風の後片付け~」

窮屈な場所にいたら、いつしか心まで疲弊して委縮し、
本来、見据えるべき方向性、道が見えなくなってしまいがちです。

だからこそ、一度、その窮屈な場所、人、コミュニティから離れて
外からその様子を俯瞰する心の余裕、距離感が大切になってくるのだと思います。

この世というものは、往々にして上手くいかないことだらけであり、
逆に言えば、それが普通だと思って、おおよそ間違いないと思います。

夢や希望や色々な理想、情熱をもって前進するのは大いに結構なのですが、
やはり基本的には全て上手くいくこと、思い通りにいくことなんてなく、
時に楽しいことがあったり、嬉しいことがあるからこそ、
また、その理不尽な毎日と向き合っていけるのではないでしょうか。

世の中見渡しても、悪目立ちばかりする連中がマスコミ業界からもてはやされており、
そういう中身が空っぽの人たちを持ち上げる人、企業、コミュニティがあるからこそ、
益々、真っ当な感覚を持った人たちとの心の乖離が顕著になる。

マスコミ業界だけでなく、どのような業界であろうが、コミュニティであろうが、
これが現実であり、そういう中で、自分は腐って迎合してしまうのか、
それとも、そういう中であったとしても、自分なりに出来ることを見出して
淡々と積み重ねていく人生を温めていくのか。

ひたむきに正直に頑張って生きているにも関わらず、
それが報われなかったり、理解されなかったりすることは本当にもどかしいことかも知れませんが、
少なくとも、長くそれを続けていれば、必ず誰かがそれを理解してくれる瞬間が訪れるものです。

僕自身もそうだったように、少しずつ少しずつ、周りに心ある理解者が増えてきて、
やがて、そういう人たちと一緒に良いものを共有できる生活の日々が
とても心豊かで心地良いものだと気づいていくものです。

ふと、直向きに一生懸命頑張っている人たちに想いを馳せながら、
そのようなことを感じた夕焼けの時間帯でした。


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Posted by 山野本竜規 at 15:08 │心の在り方 (2,645)▼