山野本竜規の続・ナカトリモチ日記
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祟り神は手が付けられません。~ご乱心な生き方にならないために~

2015年06月17日

祟り神は手が付けられません。~ご乱心な生き方にならないために~ 祟り神は手が付けられません。~ご乱心な生き方にならないために~

先週、札幌出張から戻ってきたばかりですが、
お次は明日から福岡出張が始まり、今はその準備に追われています。

またしばらくの間は真夏の沖縄を離れることになりますが、
この時期から県外出張に出かけると、スーパーなどで必ず見かける商品がこちら。

和名ではニガウリですが、どうも県外では、「ゴーヤ」という表記になることが多く、
これは僕も含め、特に沖縄本島で生活している人にとっては
どことなくムズガユイというか、「しっかり語尾を伸ばしてよ!」と言いたくなってしまうほど
なんだか、とてもヘンな感じで違和感があります。

調べてみると、「ゴーヤー」と語尾をしっかり伸ばすのが沖縄本島を始めとした
おおよそのうちな~んちゅ、現地在住者で、
八重山地方の石垣島などの一部地域では「ゴーヤ」、宮古島の一部では「ゴーラ」となるようで、
「ゴーヤー」でも、「ゴーヤ」でも、とりあえずは、どちらも正解らしいのです。

ただ、僕個人としては、やはり「ゴーヤー」は「ゴーヤー」であり、
しっかり語尾を伸ばして発音したほうが、ゴーヤーらしくて、
僕が沖縄本島在住だからかどうかは分かりませんが、
周囲の人たちで「ゴーヤ」と短く発音する人は皆無に等しく、
やはり、皆、「ゴーヤー」としっかり伸ばして発音するのがスタンダードのような気がしますし、
そのほうが、しっくりきて落ち着きます。

こういう「ゴーヤ」「チャンプル」というざっくり語尾が切られてしまう表記、発音を
本土で見聞きすることがあると、(どこへ行っても本当に多いのです。)
あの外国人のお笑い芸人のように、「Why Japanese main land people!!!!」というような感じで
「なんで本土の人は、ゴーヤーを、ゴーヤって発音するんだ!」と言いたくなってしまいます(笑)。

何故、本土で「ゴーヤ」という表記、発音が一般的に普及しているのか、
僕自身も本土出身なのですが定かではありません。

ですが、1つだけ言えるとしたら、
あまり語尾を伸ばす言葉が存在しない、語尾を伸ばす習慣がない・・・というのは確かかも知れません。

冒頭の写真をご覧になって分かるように、
本来であれば、「ゴーヤーチャンプルー」となるはずが、
「ゴーヤチャンプル」と、とてもざっくり語尾が切られてしまっています。

本土風の発音では、語尾を伸ばす言葉自体が少なく慣れていないのと、
そういう発音は、子供っぽい、だらしがない、しまりがない・・・というような
無意識のうちにある潜在的な日本語の語感があるような気がしてなりません。

例えば親しい人同士で名前を呼び合うとき、沖縄では普通に語尾を伸ばします。

名前がミツオさんなら、「ミィ~~ツゥ~~」、サトコさんなら「サァ~~トォ~~」、
アケミさんなら、「アァ~~ケェ~~」または「アケミィ~~」など、
こういう言葉の伸ばし方は、本土ではほとんど聞かれず沖縄独特のもので
これは子供だけではなく、大人になっても、おじいちゃん、おばあちゃんになっても
変わることがありません。

だから子供ではなく、大人の人が「ミィ~~ツゥ~~」とか、「サァ~~トォ~~」などと
無邪気に呼び合っている姿を本土の人たちが見聞きすると、
最初は少し驚くか、「あぁ、なんだかほのぼのしていて、いいものだな。」と感じるほど
やはり、本土の発音では語尾を伸ばす、言葉を伸ばすという感覚に
慣れていないのは事実だと思います。

こういうちょっとした語感の違いは、教科書などで習うというよりは
普段の日常生活の会話の中から自然と理解出来て馴染んでいくものなので、
僕はもう、完全に沖縄独特のリズム、イントネーション、
そして語尾を伸ばす響きが心地良く感じてしまいます。

だから、これからの時期、沖縄に観光で訪れる予定がある方がいらっしゃいましたら、
語尾を伸ばすことを無意識のうちに、ためらってしまう人も多いことかと思いますが、
せめて沖縄(本島)では、「ゴーヤ」ではなく、「ゴーヤー」、
「チャンプル」ではなく、「チャンプルー」と自信を持って発音して頂ければ、
きっと現地の人たちも喜んで受け入れてくれることかと思いますよ。

閑話休題。

このように同じ言葉1つをピックアップしてみても、
そのイントネーションであったり、語感であったり、全てが地域によって、
人によって変わってくるもので、
こういう感覚というものは、まさに人が人である所以ではないかな・・・と
個人的に感じることがよくあります。

僕がいつもこのブログや勉強会の講演などでお伝えすることなのですが、
何か1つのことをテーマにして情報発信をする際、
その云わんとすること、本質の部分をしっかり過不足なく
お伝えする努力は自分なりに最大限しているつもりですが、
だからと言って、全ての人に、その本質が伝わっている、
または全ての人に伝えなければいけない・・・ということは微塵も感じたことがありません。

何故なら、人というのは、その時の気分、感情、心境、
エネルギーの良し悪し、生活環境によって、
その情報の受け取り方が個人個人によって全く変わってくるからです。

分かる人には、分かるし、伝わらない人には、伝わらない・・・。

たった、それだけのことであり、だからこそ、
周囲の反応や評判、色々なリアクションに左右されることなく、
同じスタンスで、自分の感じることを自分の言葉で
お伝えし続けることが出来ている部分があると思っています。

僕の場合、毎回、スピリチュアリズムの本質に関わることを、
ありとあらゆる例えを用いてご紹介し続けていますが、
だからと言って、それを全ての人たちに押し付ける訳でも、
全ての人たちに理解して欲しいと感じている訳でもなく、
あくまで、理解できる素質のある方、伝わる方だけに伝われば、それでいいと感じています。

そして今の僕のナカトリモチの活動は、
そういう姿勢を通して、スピリチュアリズムの本質をしっかりと理解したいという意志がある
心ある聡明な人たちの支えで成り立っています。

やはり、伝わる人には、理解できる人には伝わり、理解出来る、
そして伝わらない人には、理解できない人には伝わらない、理解出来ないのが
本当のスピリチュアリズムの本質だと思っているので、
それ以上、求めることは何もありません。

こういうスピリチュアリズムの本質を強く全面に押し出す時、
そこに強く反発したり、拒否したり、捻くれた発想で受け止めて勘違いしてしまったりするような
人たちも勿論、大勢いると思うのですが、
これはまさに、強い光に対する拒否反応だと捉えています。

僕たちスピリチュアリストに与えられている使命の1つ、
または命を懸けてでも守り通していくことの1つに、
この世のエネルギーを、少しでも闇から光の割合に変えていく生き方を
色々な実践を通して貫いていく使命があります。

頭の上にお花畑が広がっているような地に足ついていない
フワフワした中途半端なスピリチュアルが大好きな人たちは、
「願いましょう。祈りましょう。そして世界が
明るい光に包まれるように日々笑顔で過ごしましょう。」などと
あまり現実的ではない、宙に浮いたような発言ばかりを繰り返すのですが、
これでこの世の中のエネルギーが光に変わることは一切ありません。

本当に命がけで何かを祈る時、そんなフワフワした状態でいられますでしょうか。

もっと必死であり、もっと懸命であり、もっと命を懸けているくらい強力なものだと思うのです。

あまり表現としては好ましくないのかも知れませんが、
そのような意味では、常にネガティブなエネルギー、闇の側面を持つ人の心や想念、
また、それらを操って大喜びするようなネガティブな霊団との戦いでもあるのです。

ただ、戦いと言っても、この世の戦とは違って目に見えないものであり、
スピリチュアリズムの基本は、いかに心豊かに生きていけるのかを実践することなので、
幸せな生き様を示しながら、闇の部分やネガティブな想念を持つ人たちの割合を減らしていく
発展的で明るい戦いと言えば、少しはそのニュアンスが伝わるでしょうか。

要するに、心の底から幸せを感じる人たちが増えていくために、
先ずは自らがその先陣を切って、どのような心持ち、生き方で過ごしていけば
心豊かな人生を送れるのかを、自分の人生を通して示していくことが、
闇との対峙、ネガティブな人、想念と向き合うことに繋がっているのです。

僕の場合で言えば、このブログでスピリチュアリズムの本質を
かなり厳しい表現で、お伝えすることが多いのですが、
そこに拒否反応を示す人たちの多くは、やはり何かしらのネガティブな発想であったり、
そういう好ましくない霊団と繋がりやすい心の状態を持っている人たちがほとんどなので、
常にそこと対峙しながら、光を失わない努力、自分自身を見失わないための意識の保ち方を
毎日のように積み重ねて生きています。

ただラクで、ただ全てを委ねて、ただ明るく笑って過ごせるような世界は、
霊的世界であり、この世でそれを求めること自体、既に現実逃避であるということ。

そのような明るい理想は絶対に持つ必要はありますが、
あくまでこの世は、この世であるという現実を直視する冷静さも必要です。

そしてこの世を占めているネガティブな想念、そういうものに左右されやすい
自分軸がない人たちと、どのように対峙して、そこから少しでも
光の部分を自ら見出していくキッカケを作っていけるのか・・・が、
今のスピリチュアリストたちに求められる大切な部分だと感じています。

このブログで示す表現であったり、内容はとても厳しいものが多いです。
とても耳が痛くなること、避けたくなるようなことでも、ズバリとしっかり表現します。

それで拒否反応を示すようならば、やはりその程度であり、
スピリチュアリズムの本質を実践して生きていくには、まだまだ程遠い人たちでもあると
しっかり判断出来るので、
僕は、これからもこのスタンスを変えることは一生涯ないことでしょう。

スタジオジブリの作品で、もののけ姫という映画があり、
その映画をご覧になった方も多いことかと思いますが、
あの物語の中で「祟り神」という表現が出てきます。

それまでは温厚で、優しい性格だった人(もののけなど)が、
急に豹変したように錯乱状態になり暴走し、誰の言うことも聞かずに
周囲の人を蹴散らしたり、村を破壊してしまったりして、
誰も止めることが出来ないくらい、おかしな状態になってしまうことを、
「祟り神に支配された。」と表現することがあります。

あの祟り神になりかけた時の表情とか、正論が全く通用しなくなる状態になって
周囲の制止がきかなくなるほど暴走してしまう様子などは、
まさにこの世における、ネガティブな思考の持ち主、またはそれを喜んで
操ろうとするネガティブな霊団の憑依現象そのものの姿との対峙を表しているようで、
「よく霊的世界の光と闇との対峙のことをご存知だな。」と
作り手の皆さんに対して畏敬の念が湧いてくるほど、お見事な表現方法だと感じました。

このブログで、伝わる人には伝わるし、伝わらない人には全く伝わらない・・・と
口癖のように繰り返しているのは、まさに、こういうことです。

いくら霊的世界の真実、スピリチュアリズムの本質を
真正面からお伝えしたとしても、祟り神のように自らが暴走し、
自分軸がブレている基本的にネガティブな生き方しか出来ない人たちにとってみれば、
それは邪魔なものであり、拒否したくなるものであり、受け入れられないものであり、
とても曲がった捉え方で受け止められてしまうものなので、
その本人には何の成長も改善も見られず、
いつまでも、そこから逃げ続け、暴走し続けて、益々自分の人生を狂わせてしまう結果になります。

そういう人にいくら笑顔で接しようが、スピリチュアリズムの本質を伝えようが、
心を割いて何かを伝えようとしたところで、全くもって無駄なことで、
逆恨みされるか、否定的に捉えられるか、何も響かないかで、
益々そのネガティブな感情を増幅させてしまうことになり兼ねません。

手が付けられない・・・というのは、まさにこのことですが、
そういう残念な人たちに対して、よしよし、カワイイ、カワイイ、
そうだね、そうだねとなだめることが、同調、同情することが本当の愛情だと思いますでしょうか。

やはり適度な距離をしっかり保って、毅然とした態度で
「間違っていることは間違っている。」「正しいことは正しい」と
その基準、違いをしっかり示すことは、まさに光と闇との対峙そのもので
その基準を理解していないことには、このような対峙は絶対に出来ないものです。

誰でも本来であれば調和を図り、穏やかな世の中で生活していきたいものであり、
何かと向き合う、意見の対立を避けたいと思うのは人の情でもありますが、
だからと言って、全てを馴れ合いで終わらせ、
妄想だけで平和を祈る、何もせずに嫌なものを見過ごす・・・というのは、
まさに日和見主義の人たちの典型でもあり、これは絶対に歓迎できるものではありません。

よく新興宗教の教祖や信者が全員、ご乱心になって
おかしな言動を取り始めたり、周囲の言うことを聞かなくなってしまったりすることや、
団体、組織ではなくても、個人対個人の間柄でも、
同じように手が付けられないくらい暴走してしまう祟り神のようなタイプの人がいますが、
これも全てネガティブな霊団から憑依を受けている証拠でもあります。

こういう現象も憑依が悪いのではなくて、
ネガティブな憑依をされるような心持ち、生き方をしている
本人の心の弱さが原因であり、全て本人の責任なのです。

僕もこれまでの人生の人付き合いの中で、
本当にある時期を境にご乱心になっておかしくなってしまう人たちと嫌というほど接してきましたが、
やはり、そのような人たちに何を伝えたところで、そのスピリチュアリズムの本質は一切伝わらない、
まさに手が付けられない祟り神のような状態になる人たちばかりだったので、
そこは「情」ではなく、冷静な「理性」を用いて
しっかりとそのご縁を断ち切ってきた経緯があります。

そのあと祟り神のようなご乱心状態から立ち直るのも、
そのまま暴走し続けるのも、本人次第なので、
一度は毅然とした態度で、「NO!」の意思表示を何かしらの形で伝えますが、
それ以降は、本人の問題であるため手出しは一切しませんし、
それでそのご縁は全て終了します。

1つの言葉、1つのメッセージ、1つの表現、どれをピックアップしても、
それをキャッチする側は、その人なりの心境、心情、エネルギーの状態、
生活環境の中からでしか、受け止めることが出来ません。

それがスピリチュアリズムにおける、光と闇の基準の1つなのです。

本人がどちらに傾きやすい人間なのか、
はっきりと明確にすみ分けすることが出来るのが
このブログの厳しいメッセージであり、僕自身の普段の言動であり、
ナカトリモチとして生きていく基準にもなっています。

だから、伝わる人には伝わるし、伝わらない人には伝わらない・・・。

それ以上でも、それ以下でもなく、
こういう基準があるからこそ、僕のナカトリモチの活動は、
とても心ある聡明な人たちに支えられ、成り立っているので、
そこには、感謝の気持ちしか沸き起こりません。

ふと、言葉のニュアンス、言葉の受け止め方の違いから
その人の心の状態、普段の考え方が全て生き様に表れていることを感じました。


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Posted by 山野本竜規 at 17:09 │心の在り方 (2,645)▼