山野本竜規の続・ナカトリモチ日記
てぃーだブログ › 山野本竜規の続・ナカトリモチ日記 › 心の在り方 (2,645)▼ › 自分を見つめる高い場所。~ちっぽけな枠に囚われないために~
2024年6月9日(日)、5年ぶりの福岡ナカトリモチ勉強会を開催します。
*県内、県外の土地家屋の鑑定、お祓い随時受付中です。                     

自分を見つめる高い場所。~ちっぽけな枠に囚われないために~

2015年03月26日

自分を見つめる高い場所。~ちっぽけな枠に囚われないために~僕は街の中心部から少し離れた高台や、
その街の様子を眺められるような場所が昔から大好きで
新しいエリアに行くと、ついつい無意識のうちに
「この街全体を見渡せる高台や展望台のような場所は
どこにあるのかな。」と探してしまう癖があります。
だから○○タワーの類や、展望台などが大好きで
そういう絶景ポイントを探すのも僕の中の楽しみの1つ。

こういう性分も小さな子供の頃から全く同じで、
当時生活していた地域には、子供の足で随分遠くに感じていた大きな岩山があり、
周囲の大人たちからは「危ないからあの岩山は登っちゃダメ」と注意されていても、
その山をよじ登って眺める街の景色が、なんとも素晴らしく
子供ながらに感動していた記憶があります。

いつも自分目線で生活している街が、ほんの少し高いところに場所を変えるだけで、
こんなにも、もっと色々な景色、世界が広がり、素敵なものに感じるんだな・・・ということに
素直に感動していたのですが、
その気持ちの根本は、やはり、今も昔も全く変わっておらず、
僕の人生の中に、しっかりと根付いているような気がしてなりません。

高いところから眼下に広がる街や、その他の景色を眺めることは、
僕にとっては、良いリフレッシュにもなり、何よりも自分自身の人生の
成長をストップさせないためには有効な方法の1つだと感じています。

人というものは、何よりも「慣れ」が得意。

一度、自分なりの習慣、それが実際の行動にしても、考え方、生き方の癖にしても、
良い悪いは別にして、それらに慣れてしまうと、
なかなかそのサイクルから抜け出せずに、それらが当たり前になってしまうものです。

これが良い方向に作用するのであれば歓迎すべきことですが、
人の慣れの多くの場合、良い作用よりは、
その人の魂の成長や生き方を滞らせてしまう悪い作用、
よく言われる馴れ合いという停滞エネルギーのどつぼにハマってしまう残念な人たちも
多く見かけるものです。

いつも街の中の雑踏で生きていれば、その街の全景、
素晴らしい景色を感じるための場所や視点があることに
なかなか気づくことが出来ずに、小さな小さな自分目線でしか生きられずに
その小さな枠が、自分自身を苦しめて悩んだり、迷ったり、ブレたりする人なんて
どこにでもいるものです。

僕自身も、未熟な部分を兼ね備えてこの世を生きる生身の人間であり、
そういう小さな枠だけに流される要素は勿論持っているので、
小さくまとまらないためにも、ちっぽけな枠で自分の人生の可能性を狭めないためにも
時々、もっと広い視点、広がりのある世界がこの世には存在する・・・という
素晴らしさと、その現実を感じるために、それらを遠くから眺める習慣が
自然と身についているのだと思います。

人によっては、こういう状態を「物事を俯瞰する」と表現するのですが、
自分の人生の立ち位置、生活自体を、他の誰でもない自分自身で冷静に見極めるためには、
毎日の生活の中でも、常にどこかのタイミングで全体を見渡す場所に
意識を保っておく必要があると感じています。

逆に言えば、これが出来ないからこそ、
人は多いに迷い、悩み、必要以上に色々な情報、もの、人に助けを求めて
右往左往したがるのだと感じています。

そして、こういう感覚的なものは、自分自身の内面で
しっかり努力して築き上げていく意識がなければ、絶対に鍛えられない感覚で、
ある意味、この点に関しては、その人の生きるセンスが問われる部分もあると思うのです。

こういう生きるセンスのない人は、いつまでもグルグル悩み、迷い続けますし、
本能的に前を向いて生きるセンスのある人たちというのは、
やはり誰から言われるまでもなく、ありとあらゆる外の情報から
自分自身で物事を俯瞰して、自分の立ち位置を知り、最善の方法を取り入れていく
積み重ねをしていると思うのです。

だから、こればかりは、その人のセンス、才覚の部分なので、
そのセンスがない人たちに、いくらこのブログでその大切さを必至に訴え続けたところで
響かない人には響きませんし、理解も出来ないことですし、
その逆で、1をお伝えして、10を理解できる方もいるので、
やはり、身も蓋もない話ですが、こればかりは、その人の生きるセンス次第なのです。

表面的な思考、感情だけでは、自分で自分のことは一番分かり辛いもので、
そういう時、自分がどの立ち位置にいるのか、冷静に判断できる基準の1つに、
周囲でご縁がある人たちを見渡す・・・というものがあります。

これも、ちっぽけな自分目線から離れて、また違った視点で
自分を見つめなおすためには最適な方法の1つではないでしょうか。

類は友を呼ぶ・・・とはよく言ったもので、
周囲で関わる人たち、親しくお付き合いをしている人たちの
生き方、考え方、普段の言動などをちょっと距離を置いて観ていれば、感じていれば、
おおよそ、その人の人生の立ち位置が分かります。

僕は、ナカトリモチという霊的世界と、この世の人たちの間に立って
その本質を通訳していく職業で、勿論、そのことに関しては
自分なりにしっかりと誇りをもって取り組んでいますし、
今の人生は、心の底から大好きだと、いつでもどこでも宣言できます。

そして、ナカトリモチという仕事をしていると、
その分野に興味関心がある人たちが集まってくる人生でもあるのですが、
だからと言って、それがお役目だとしても、自分自身の大切な仕事だったとしても、
どういう訳か、同業者や同じような業界の人と仲良くつるむ・・・ということが
ほとんどないのです。

自分の人生の立ち位置が、そこではないからです。

スピリチュアル業界は、そのほぼ9割が、
不思議なもの、魔法のようなもの、自分の全て、自分の人生を肯定してくれるものだけを求め、
または求められる共依存の関係で成り立っている
なんとも未熟でちっぽけな世界で、どういう訳か、そういう連中は、
「スピ仲間」同士で繋がり、
「あっちの霊能者、ヒーラー、治療家が良い!」と言われれば、あっちにフラフラ、
そして、そこに飽きたら、今度は、「こっちも良さそう!」と言われて、こっちにフラフラ・・・。

要するに、そういう発展的ではない状態を一生涯続けて
彷徨い続けるスピリチュアルゾンビでいることが、何よりも心地よくて
影響力のある誰か、不思議な力を自称する誰かに頼って
自ら努力して魂を成長させていくことを本心では望んでいない残念な人たちの集まりでもあります。

何度でもお伝えしますが、こういう依存系の人たちがスピリチュアル業界の9割に相当し、
それが「お金になる」と理解している、これまた上っ面の自称スピリチュアリストや、
霊能者、ユタ、カミンチュ、ヒーラー、その他の治療系の人たちが、
このちっぽけな枠の中でひしめき合っている状態でもあるのです。

これはスピリチュアル業界にしても、自己啓発の業界にしても、
新興宗教業界にしても、ネットワークビジネス業界にしても、
はたまた、一般社会に毒キノコのように蔓延る色々な残念な業界にしても、
全て同じシステムだと感じています。

残念な人たちは、その垣根を越えて、おおよそどこにでも出現して、
残念なスピリチュアルワーク、そして今度は残念なネットワークビジネス、
そこに飽きたら今度は残念な自己啓発・・・と、
ずっと同じようなことを繰り返し、彷徨い続けて一生を終えてしまいます。

それも、これも他の誰かの責任ではなくて、
そういう人生を自ら選んだ本人の責任であり、こればかりは、
誰も手助けすることは出来ません。

あと、そういう人生ゾンビに共通していることは、
その都度、その都度、思考・感情だけで感激したり
自分自身を叱咤激励したりする言動がやたらと目立つので
僕は、こういう表面的な言葉も一切信用はしていません。

「今日は大きな気づき、学びがありました。これを次に活かしていきます。」
「この言葉、とても心に響きました。これで人生が変われそうです。」・・・など、
本人たちは、勿論、本気でそのように感じているのですが、
「だったら、口を動かす前に変わるための行動を先に取れよ!」と
意地悪な僕は、冷静に感じてしまうので、そういう言葉は基本的に信用できないのです。

何故なら、本当にそういう物事の本質を理解して、自ら行動に移している人たちというのは、
敢えてそういう言葉で表現するよりも、静かにそれらに淡々と取り組んで
それを生き様として、結果として、しっかり表に出しているものだからです。

たとえは極端なのですが、「どこどこに募金をした。」「いくら寄付した。」など
自らのボランティアを敢えて他人様に宣言するようなことって
もうその時点で、ボランティアでも善意でも何でもなく、
周囲がドン引きしたり白けてしまうように、
中途半端な「頑張ります。」や、「学びがあった、気づきがあった。」「感動しました。」は
あくまで一時的なものであって、それを継続出来なければ全く無意味だということ、
またそういう表面的な言動が、いかに浅はかで白々しいものなのか、
冷静に気づくことが出来なければ、一生、変わることはないという事実に
いつか気づかなければいけないと思うのです。

まぁ、気づけないから、そういう白々しい浅はかな言動を公に出来るのでしょうけれど・・・(笑)。

何はともあれ、僕が、そういう白々しい人たちがひしめき合っている
スピリチュアル業界に知り合いが少なかったり、
そういう系統の人たちとつるむことを一切しないのは、
しない・・・というより、出来ないからだと思います。

敢えて、そんなスピリチュアルゾンビ、その他の自己啓発、ネットワークビジネス、
新興宗教、はたまた自分の人生ゾンビがひしめき合う
コミュニティに身を置く必要なんて全くありませんから。

というよりは、そんな程度の低い下らないところで生きていく意味が
僕には全く理解出来ないので、おのずと、そうなっているだけの話だと思います。

ここで「俯瞰」という言葉を敢えて使うのであれば、
きっとそのちっぽけで残念なコミュニティでひしめき合って
なかなか発展的になれない人たちというのは、
そこが全てであり、そこが最善の道だと信じてやまないので、
こういう僕の発言は、何よりも心地よくないものでイラッとくることでしょうし、
そもそも、その意味すら分からないでいるので、やっぱり俯瞰が出来ていないことになります。

要するに、生きるセンスが備わっていないのです。

僕は、こういうセンスのない人たちに、いくら物事の本質を伝えたとしても、
逆切れされるか、抵抗されるか、皮肉にとられてしまうのかのどれかなので、
無意味なことであり、そこに自分のエネルギーを注ぐことは
最初からやるつもりも毛頭ありませんでした。

やはりエネルギーの無駄使いであり、人生の無駄遣いですから。

だからこそ、そういうある程度のセンスのある、発展的な人たちと
そうではない人たちとの違いを見定めるために、
このブログでも、普段のナカトリモチの活動でも、はたまた自分自身の人生でも、
いつでも、どこでも、ハッキリと自分の生き様を示すようにしています。

これでおおよそ、ご縁のある人はご縁があり、ご縁がなくなる人は見事になくなるので
僕にとっては、余計な労力は使わずに済み、
本当にシンプルで、充実した生き方をさせてもらっていると感じています。

人の人生というものは、いかようにでも、広がりを持てるものであり、
そこには大きく広がる可能性のチャンスがいくらでもあるものなのです。

それなのに、自ら動き出したり、考え出したり、作り出したりする自信も勇気も覚悟もなくて、
ずっとちっぽけな枠に留まり続け、
影響力のある人の上っ面の物真似ばかりをしたり、誰かに言われたことを
そのままやり続けて独創性を出そうとしなかったり、
そんなことばかりしていては、いつまで経っても本当の意味で、
自分の人生を生きている実感なんて湧かないものであり、
そういう姿って、僕にとっては本当に不細工で、つまらない姿に写ります。

もっと広い視点で、もっと高い感覚で物事を捉えながら
自分の立ち位置を確認していく意識を持たなければ、いつまで経っても
同じところばかり、グルグル右往左往して停滞するものですし、
そうなりたくなければ、やはり自らの意志で、そういう無意識の癖を
変えていくしか方法はありません。

人生の自分の立ち位置を俯瞰するのは、
誰にとっても難しいことの1つだと感じていますが、
悩みの渦中、迷いの渦中にいる時にこそ、こういう生きるセンスの真価が問われると思うのです。

自分は残念な周囲の流れに人生を委ね、身を置いているのか、
それとも、そうではない発展的で自立した人生の流れに身を委ねているのか・・・。

それを知るためには、ちっぽけな自分という枠から飛び出して、
もっと広い視点、高い視点で、それらを感じなければいけません。

時には今の生活パターンや習慣、ちっぽけな視点を変えるために、
思いっ切り外に出てみたり、全く違うものに触れてみたり、
高い場所から街を見下ろしてみたりすること、
そして、そういう意識をなるべく保って
日々の人生と向き合うことは、とても大切だと感じています。

生きるセンスを兼ね備えている方だけに、この本質がお届けできれば、
僕は、それだけで御の字だと感じています。

ちっぽけな自分目線だけで苦しまない、
明るく発展的な広がりのある生き方を共有できる人たちと
これからも良いシェアリングが出来るよう、
僕自身も居住まいを正して生きていきたいな・・・と感じる今日この頃です。


*お知らせ*
*3月28日(土)・沖縄ナカトリモチ勉強会参加者募集中です。
4月・東京出張(勉強会、土地家屋のお祓い)受付中です。
*土地・家屋のお祓い、随時受付募集しています。
ジョンのリーディング、スカイプ鑑定、随時受付募集しています。


同じカテゴリー(心の在り方 (2,645)▼)の記事
Posted by 山野本竜規 at 21:49 │心の在り方 (2,645)▼