山野本竜規の続・ナカトリモチ日記
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水子供養、先祖供養。~その前にあなたの供養が大切です~

2015年03月23日

水子供養、先祖供養。~その前にあなたの供養が大切です~今日で2日間続いた福岡での霊視個人セッションも終わり、
明日の午前中の便で沖縄に戻る予定です。

今回の福岡出張でも、本当に色々なことを
改めて深く考えていく良いキッカケを与えてもらう機会が多く
霊的世界の知識の普及という点において、これからも
しっかりと意識を保ちながら取り組んでいきたいと思いました。

亡くなった故人の魂の供養の在り方については、
このブログでは過去に何度もことあるごとにお伝えし続けているのですが、
今回の福岡出張では、お彼岸ということもあり、
ナカトリモチ勉強会の講演でも、霊視個人セッションでも、
そのことについてのメッセージをお届けする機会が多かったように思います。

そもそも供養って、一体、どのような意味でどのような行為を指すのでしょうか。

こういうことを具体的に論理的に深く突き詰めて考えるということは
あまりないと思いますが、その曖昧さ、中途半端さがあるからこそ、
そこを悪用しようとする人たちも存在するということを忘れてはいけないと思うのです。

先祖供養、水子供養、亡くなった身内や友人の供養・・・。

答えから先にお伝えするならば、本当の意味での故人に対する供養というものは、
お祈りをしたり、お墓参りをしたり、お線香をあげたり、
お経や祝詞を上げたりする表面的なパフォーマンスではなく、
この世で生きている人間が、しっかりと自分の足で自分の人生を生き、
なるべく幸せな姿を見せること、その生き様を通していくこと自体が本当の供養なのです。

もう1つ付け加えるのであれば、その「供養」の正体は、
故人に対してではなく、その故人との別れ自体で傷ついた
生きている人間側の寂しさ、悲しさ、後悔などの想いの供養でもあります。

「仏壇、位牌、お墓は立派なものにしてお金をかけたい。
だけど、そのお金も時間も場所もないから先祖供養が出来ないし、
それはご先祖様にとって、とても失礼な態度になる・・・。」と
本気で悩んでお越しになった方が過去にいらっしゃいましたが、
本当の供養の意義を知っていれば、こういうまやかしに惑わされずに済んだはずです。

仏壇、位牌、お墓があって、お坊さんやユタ、霊能者を呼んで
先祖供養をしてもらう・・・。

それが全て無駄とは言いませんが、そういうことが出来なかった人、
または経済的な事情やその他の事情で出来ない人たちは
全員、ご先祖様に対して、はたまた故人に対して不義理をしていることになるのでしょうか。

僕からすると、そんなちっぽけなこの世の事情で
全てが整わなかったから・・・と怒り出すようなご先祖様や故人の魂なんて、
立派でも何でもなくて、ただこの世に執着を残した残念な未浄化霊だと認識するので、
逆に「あなたたちはあの世の人なんだから、この世のことで
あれこれ口出しするのは間違いで、執着を早く手放してください。」と強く諌めることでしょう。

何度でも何度でも繰り返しお伝えしますが、
本当の故人に対する供養というものは、その故人と関わりがあった
生きている側の人間が、しっかりと自分の足で自分の人生を生き抜く姿を見せること。

要するに、自分の人生をしっかりと生き抜くことが何よりの供養なのです。

中途半端な霊能者、ユタ、カミンチュなどはしきりに
先祖供養や水子供養、はたまた故人の供養を求めてきますが、
それは、彼らが、そういう見えないものを商売の1つとして食べていくための口実に過ぎません。

お寺のお坊さんだって全く同じです。

全ては動機が大切で、心の底から故人の浄化を願って
仏壇なり、その他の行事をするのは、「想いを強める」という側面では有効でしょう。

ですが、それが出来ないからと言って、供養が出来ていない・・・ということにはならず、
やはり最終的には、この世を明るく発展的に生き抜く姿そのものを見せることが
何よりの故人にとっての供養になることは変わりありません。

もっともっと広い視点で物事を捉えて欲しいのです。

ちなみに欧米には日本のような「先祖供養」という概念は、ほとんど存在しません。

先祖のルーツ、そこに思いを馳せることはありますが、
その魂をさかのぼってまで、生きている人間側が何かできることなんて何もなく、
そんな余計なことをするのであれば、今、自分の人生にしっかりと向き合うべきだ・・・という
「情」ではなく、あくまで冷静な理性で捉える文化が根付いているからです。

全てを「情」で判断しようとすると、必ず色々な弊害が出てくるもので、
日本人には、その情を良い面でも、悪い面でも、
どちらにしても、あまりにも大切にし過ぎている側面がある・・・という事実を
広い視点で冷静に受け止めなければ、
いつまで経っても怪しい先祖供養文化、水子供養文化、故人の魂供養文化は
残り続けていくことでしょう。

つまりは、いつまで経っても「供養」という見えないものを商売にして
中途半端な知識を普及する怪しい霊能者、ユタ、カミンチュ、その他の類の人種が
消えることはない・・・ということです。

「水子供養」という言葉、僕は大嫌いなのですが、
この水子供養という概念も、日本独特のものだと感じています。

このことについては随分昔のブログで詳しくご紹介しているので
関心のある方は、ご覧になって下さい。

*「水子なんて呼ばないで・・・。」

同じ元人間なのに、何故赤ちゃんだけ亡くなったら
まるで別の生き物のような扱い、呼び方にする必要があるのでしょう。

そもそも「水子」という表現自体、愛されず彷徨っている赤ん坊の魂・・・というような
マイナスのイメージが付きまとってしまい、
これが世間に誤解を与えてしまう大きな原因の1つだと感じていますが、
赤ちゃんは、執着が多い大人の未浄化霊のような状態にはなりませんから。

これは、過去の霊視でも幾度となく経験してきたことなのですが、
色々な事情から堕胎をしなければいけなかった母親、父親が
その後悔や自責の念にかられてセッションにお越しになることが続いた時期がありました。

今では故人の魂の通訳をすることは、ケースバイケースですが、
そこにあまり意味はないと感じているので、霊視個人セッションでそれをすることはありませんが、
随分昔は、「必要かな。」と感じた場合のみ、故人の通訳をさせてもらうことがありました。

これをブログでご紹介してしまうと、勘違いをして
「私の場合は特別かも。」と、敢えて故人の通訳を期待して
霊視個人セッションにお越しになる方が増える結果になるので
この場を借りて改めてお伝えしておくと、
現在の霊視個人セッションでは特例以外は、故人の通訳は一切しておりませんので
そのことをご理解頂いたうえで、この先の文章をお読みください。

堕胎という行為で、まだこの世に生まれ出ることがなかった赤ちゃんの魂は
とてもピュアで優しいもので、そういう行為を行なった両親や家族に対して
「憎い!」とか「悔しい!」「悲しい!」という想いは一切持つことがありません。

むしろ、そのことによって深く傷ついて、いつまで経っても懺悔の心や
自責の念にかられているお母さん、お父さんを心配していることが多いのです。

特に心身共にダメージが大きいのは女性のほうですから、
赤ちゃんの魂もお母さんがいつまでも悲しんでいると、
なかなかあの世に戻れず「お母さん、自分は大丈夫だから。」と常に語りかけて
心配をしているのが、よく視られる光景です。

懺悔の気持ちを持つのも結構、自責の念にかられるのも結構。

ですが、本当に堕胎した赤ちゃんの気持ちを思うのであれば、
いつまでも自己憐憫に浸って涙を流しているような自己満足は止めていただきたい・・・と
強く強くいつも感じてしまいます。

本当の供養とは、この世で生きている人間が、明るく発展的に生きている姿を
しっかり故人に見せること、その生き様を示すことであり、
それ以外の供養なんて、正直、ほとんど意味を成しません。

赤ちゃんにいつまでも迷惑をかけて、心配をかけていることにも気づかず、
また想像力を働かせることも出来ず、
いつまでも「自分が」悲しい、「自分が」辛い、「自分が」前を向けない、
その自己中心的な発想、生き方自体を供養して欲しいのです。

中途半端な霊能者やユタ、またお寺にも「水子供養」と称する
実態のない商売が存在しますが、
水子なんて、この世にも、あの世にも存在しませんし、
供養する必要なんて一切ないのです。

何故なら、特に赤ちゃんの魂は純粋で、逆にこの世に残された人たちのことを
おおいに心配し、それでも、霊的世界の配慮から、
すぐにしっかりと霊的世界に戻る手続きが取られるからです。

実態も何もない水子供養にお金を払い、供養したつもりになったとしても、
その人自身の生き方が残念であれば、
その姿、想いも、確実にあの世の魂に届いているわけで、
また1つ心配の種を増やすことになるのです。

霊的世界は見えないし、聞こえないし、分からないもの・・・。

だからこそ、言いたい放題、やりたい放題の実態の見えないもので
いつまで経っても中途半端で怪しい商売が成り立ってしまう状況が
ずっと続いているのですが、
そこに騙されるのも、自らの意志で距離を取るのも、全てその人の責任です。

何度でもお伝えします。

本当の故人の供養とは、祈ることでも、お金をかけて立派な仏壇、位牌、お墓を作って
お経をあげたり、祝詞を上げたりすることでも何でもなく、
自分の人生をしっかり明るく生き抜く、その姿を見せること。

むしろ、余計なことは一切せず、自分の人生をしっかり生き抜くことだけに
全力を注いでいけば、それだけで立派な先祖供養、故人の供養になります。

あなたがあの世の住人になって、供養される立場になった時、
この世に残してきた家族が、どのような姿で生きていたら安心しますでしょうか。

ちょっと想像力を働かせれば、すぐに理解できることです。

やるべきことは、たったそれだけ。立派に生き抜くことに全力を注ぐことだけです。

これでまた供養を専門とするお寺、神社、ユタ、カミンチュ、霊能者、
その他の類の人たちを敵にまわしたことになりますが、
やはり僕ははっきりと何度でもお伝えします。

本当の故人の供養とは、他の誰でもない自分自身が
しっかりと自分の人生を寿命の最後まで生き抜く姿を見せること。
たった、その1点のみだと確信しています。

それ以外の供養に心が揺れてしまうのは、
正直言えば、その本人の心を供養して欲しいだけ、
気持ちの整理をお経や祝詞や供養の行為自体を通して、
取り除いて欲しいだけ、要するに、故人の供養ではなく、
生きている人間の感情の整理、供養が主なのです。

「情」ではなく、あくまで理性でそれらの事実を受け止め、
あとはどちらの道を選択するのかは、その人次第です。

僕は自分の人生をしっかり生き抜くことで、
自分の気持ちも充実して整理されてきますし、
きっと、あの世でご縁がある魂たちも、喜んでその様子を見てくれていると感じていますので
このままで十分です。

本当の供養は、この世を生き抜く、その発展的な生き様を見せることだという事実を
しっかりと理解できていれば、怪しい供養の勧誘も、
自らの冷静な判断でしっかりお断りすることが出来るのではないでしょうか。

僕は供養、供養とそこに執着している人たち全てにお伝えしたいです。

「そんなに供養したけりゃ、
先ずはあなたの残念な気持ち、生き方、心の供養をすることに専念したら?」と。

これ、中途半端な供養文化に惑わされている中途半端な人たちに対して
僕自身がいつも感じている、僕の嘘偽りもない、正直な気持ちです。

本当の供養とは・・・。
この機会にご自身なりにしっかり整理してみるのもいいかも知れませんね。


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