山野本竜規の続・ナカトリモチ日記
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実践的な日記の書き方。~ナカトリモチ日記の原点~

2014年03月26日

実践的な日記の書き方。~ナカトリモチ日記の原点~写真に写っている、新聞の切り抜きと、
その横のページに何やら赤文字で書かれている文章。

これは、僕が大学時代に習慣にしていた
自分自身を見つめるための日記帳の1コマで
必ず1日1回、気になった新聞などの記事を切り抜き
自分なりの感想を綴るという約束事を遂行していました。

もともとは、当時、放送局のアナウンサーを目指すために
通常の大学の授業と並行して、放送局やマスコミを目指す人たちのための
就職専門学校のようなところがあり、そこに通うようになって
そこで出会った恩師で、今でもお付き合いがある春日美奈子さんから
お勧めしてもらった方法です。

マスコミ、特にアナウンサーを目指すなら、
世間に溢れている様々な情報の中から、何を感じ取り、
何を拾って、自分なりの考え、生き方という知性に変えていけるのか、
常日頃から意識的にアンテナを張って情報をキャッチし、
それを自分なりの言葉で伝えられるような人間力を身に付けましょう・・・と、
とても分かりやすく、人としての大切さを教えて下さったのがキッカケで
大学時代だけでなく、無事に放送局に就職してからも、
その後の社会人になってからも、その精神というか、
人としての在り方や根本的に色々なことを見つめる習慣が身について現在に至っています。

学生当時は、今以上に世間知らずだったので、
「心から信頼している先生がお勧めすることだし、
言われたことをやっておけば、今後、何かの役に立つかもしれない。」
「何より、就職活動に役立つだろうな。」程度にしか考えておらず、
今考えると、とても不純な動機からのスタートだったのですが、
やり続けていくうちに、これが自分にピッタリ合っていることに気付いて、
そこからは、もう、自ら進んで、自分の心に残る新聞記事やコラム、
その他の情報などを片っ端から読むようになり、
気になった記事はノートに貼り付け、そこに自分なりの感想や考えを綴っていくことを
続けていました。

幸い僕は大学4年間を、新聞奨学生という制度を利用して
奨学金をもらう代わりに新聞専売所で働きながら学校に通っていたので
新聞はタダで読み放題でしたし、しかも数種類の新聞、
つまり色々な情報、知識、生活の知恵、叡智が毎日、手の届く範囲にあったこともあり、
そのような恵まれた環境もプラスに働いていたのだと思います。

所謂、僕が本格的に活字に触れて、そこから得る情報に
喜びや感動を覚える体験、素晴らしさに気付いたのが、
この時からなので、学生時代、唯一、学生らしい勉強というか、
一生涯役立つ習慣が身についたことは、とても有難いことだと感じています。

そもそも、僕が日記を本格的に習慣化し始めたのは、
15~6歳、高校1年生の時です。

そして、僕に本格的に日記を書くこと、
本や新聞を読むこと、活字に沢山触れることを勧めてくれたのは、
国語の先生ではなく、当時の英語の先生でした。

当時、とても尊敬していた女性の英語の先生がいて、
この先生の、どこが凄かったのかと言えば、
とにかく他の先生たちに比べても、ずば抜けて精神年齢が高く、
「かっこいい大人だな。」と子供心に素直に感じるほど
人間力に満ち溢れた発言、姿勢で生徒と向き合う人だったのです。

その先生、学生時代はほとんどの教科で
100点満点以外の点数は取ったことがないほどの秀才で
色々な知識も豊富、しかし、それを微塵も感じさせないほど
親しみやすく、何より、やっぱり人間的な魅力に溢れていた人でした。

見た目は、お世辞にも見目麗しい方とは言えず、
タレントの山田花子さんに黒縁メガネをかけさせて
短めのおかっぱにしたような、だけど、とても愛嬌のある表情で、
僕の中では、ドラミちゃんのような容姿だったと記憶しています。
(とても失礼な話ですが。)

年齢も僕が16歳、その先生が当時でまだ24歳ほどだったので
そこまで差はなかったはずなのに、
今、その先生の年齢をとっくに超えてしまっている僕ですら、
あの当時の24歳の先生の立居振舞い、日頃の言動には到底及ばないほどの
素晴らしい精神性というか、人間性を兼ね備えておられた人だな・・・と
今でも時々、思い出すことがあります。

「この人、まだ若いはずなのに、何でこんなに精神性が高くて、
素直に尊敬できるような立居振舞いや発言、授業が出来るんだろう。
他の大人の先生に比べても、ずば抜けて人として尊敬できる魅力があるな。」

僕が素直に「素敵だな。」と他の人を感じる基準は、
今も昔も、全く変わりありませんが、子供ながらに
その先生の内面から出てくるものは、ただ者ではない何かを
ひしひしと感じていました。

そして、その先生は、当時から偏屈で変わり者だった僕を、
どういう訳かよく面倒見て下さり、話を聞いて下さり、
英語の授業以外の様々な人としての生きる姿勢を
その他大勢のクラスメイトがいる時ではなく、
1対1の時に、色々、厳しく教えて下さいました。

「あの担任、世間知らずでお坊ちゃま育ちだと思うから、
家庭の経済的なこととか、色々な事情があること、
ちっとも理解がないので困っているんです。」と僕が愚痴をこぼそうものなら、
「その現実は変わりないのだから、いくら悲観してもダメでしょう。
そうやって誰にでも同じような愚痴を言い続けて、同意を求めて続けて
腐ってしまうだけでは、いつまで経っても成長できませんよ。
その現実から逃げずに、担任の先生とどう向き合い、
あなたが何を感じ、何に気付いて成長していけるのか、
常にそういう視点で向き合っていかなければいけません。
私は、あなたにそうやって、いつでも次の課題を残してあげますから、
いつでも疑問に感じたことを質問しに来て下さい。」

今、教育界に、このようなことを堂々と自信を以て、
しっかり威厳を保って生徒や児童に向かって伝えられる先生って
どのくらい存在するのでしょうか。

僕にとっては、とても衝撃的だったこの先生の言葉、
少しは大人になったであろう今でも、鮮明に覚えていますし、
僕は、特に若いうちの人生の節目において、
こうやって素晴らしい恩師たちに恵まれていたこと、心から感謝しています。

先生は、それから僕に次の課題を与えました。

英語の授業とは全く関係なく、担任でもないのに、
「今、あなたの中にある考えを言葉として、文章として
しっかり書き出して、自分を見つめるように日記を書いて下さい。
あなたには、その作業が必要ですし、今後、大人として成長するために
とても必要なことだと思いますから。」と
まるで業務命令のように、伝えてこられました。

日記を書いて内申点が良くなる訳でも、成績が上がる訳でも、
はたまた英語の点数が良くなる訳でも何でもないのに、
なんで授業以外に、日記なんかつけなきゃいけないんだろう・・・。

元来グ~タラな性格のため、最初はそう感じたのですが、
尊敬する先生が個人的にお勧めして下さることだから、
とりあえず、日記を書き始めることにしました。

すると、段々、自分の中で自分の考えがまとまるというか、
考えというよりも、気持ちが整理されてくるような、
悶々としていたものが、清々しい気持ちになってくるような
今まで感じたことのない、喜び、感覚が
自分の中から溢れ出てくるのが分かりました。

「文章を書くのは、自分の気持ちや感情を整理し、自分を見つめること。
そして、新聞や本を読むのは、私のような学校の先生だけではなく
世界中の素晴らしい知識という、形のない先生たちから学ぶこと。
先生も、学生時代、尊敬していた先生から同じように言われて
あなたと同じ年齢の時期に日記を書き始めて、
それから色々な本や新聞を以前より多く読むようになったの。
だから、同じように、あなたは、色々なところから学んで成長する、
それが出来る人だと思うから、お勧めしているんです。
授業の成績には一切関係のないことですけど、一生涯の宝になるものですよ。」

あの言葉がなかったら、あの出会いがなかったら、
僕には自分の足で人生を歩んでいけないような、
もっと苦しい別の人生があったのかも知れません。

先生の言葉通り、今では、その習慣が一生ものの宝となって
僕の中でずっと生き続けていますし、これからも、
この世の人生を終えるまで、基本はずっと変わらないことでしょう。

その英語の先生の授業を受けることが出来たのは、たった1年。
翌年、先生は、別の高校へ転勤になり、
それ以降は、ずっとエリア屈指の進学校に在籍することになり
今でもその学校で、教鞭をとり続けておられます。

頭が良いだけの秀才ではない、人間力、高い精神性を兼ね備えた
先生の中の先生のような存在の人に、
一番多感な時期に、その後の人生の基礎を徹底的に教えて頂いたことは
本当に奇跡に近いような経験だったと思いますが、
その基礎が、今の僕の言動に全て繋がっていると感じています。

その基礎から、今度は大学時代に、
新たな恩師から、世に溢れる知識や情報をいかに自分のものに取り込んで、
自分の人生に活かしていくのか・・・という
人としてまっとうに生きる姿勢の応用を学び、ただの気持ちの整理の日記から、
より発展的に色々なことを見据えていく視点が養われました。

これが、ナカトリモチ日記の原点です。

もうかれこれ、日記を書くという習慣は、
20年以上僕の中で習慣化されているものですから、
よく、「なんで、そんなに毎日、長い文章を綴ることが出来るのですか?」と
問われることがあるのですが、
「ただ1つのことを続けてきただけなので。」としか
答えられないのが正直なところです。

そして最初の原点は、人生の先輩にあたる
尊敬できる英語の先生の生きる姿勢であったり、
恩師の考え方であったり、
世界中に溢れる本や新聞などの様々な生きた叡智であったり、
それらが全て僕の人生の先生になっています。

そして、今度は日々の生活の中で、
実体験で自ら学んだことをプラスして
物事を捉えたり、考えたり、見つめたりする習慣が身について、
それが現在の僕の全ての生きる姿勢に繋がっています。

情報にも色々な種類のものがありますが、
特に本や新聞などの活字の効果は、とても素晴らしいと感じていて
そこには、1つの言葉、文章から、その風景や匂い、感覚、
云わんとすること、その全てを自らの想像力をフルに使って
感じることが出来る喜びがあり、この一連の作業全てが、
自分の中の小さな積み重ね、糧になっているのだと確信しています。

全てとは言いませんが、
本や新聞は、その人の精神性、人間力、生きる力を
とことん鍛え、磨いてくれるヒントが沢山散りばめられています。

それを、どう受け止め、どう取り込み、
そして、どのように自分のものにしていくのかは、全てその人の意識次第。

僕の日々のナカトリモチとして発する情報源は、
このように20年かけて続けてきた、
そして、これからも何らかの形で一生涯続けていくであろう、
1つの作業が基本となっているのです。

ブログでは、そのような基礎があった上で、
自らの体験が加味されなければ何もお伝えすることは出来ず、
だからこそ、色々な体験を積極的に積み、感じ、それを自分の中に取り込んで、
このような日々の日記としてご紹介しているところがあります。

だから、いつでも、感じるのです。

目の前で向き合う人が使う言葉、考え、生き方、
はたまた日々触れる様々な情報の発信者の言葉などは、
本当に、その人の体験、言葉から発せられたものかどうか、
ただの誰かの受け売り、コピー、物真似だけの薄っぺらい
実体験が伴っていないものなのかどうか、
それとも、本物のその人から発せられる言葉なのかどうか・・・。

これは、直観というよりは、
様々な経験に裏打ちされた本能に近いものがあります。

ただのどこかの教科書のようなコピーの文章、言葉では
その真意の全ては伝わりませんし、あくまでコピーはコピー、
他の何かの物真似そのもの。

スピリチュアリズムについて説いている本にしても、ブログにしても、
その他の似たような新興宗教、経営者セミナーやヒーラーなどが
発する情報やセオリーにしても、
どこか薄っぺらく感じて、何かのコピーのような感じがして、
胡散臭く、現実味を感じられないのは、それが原因だと感じています。

全ての発言、生きる姿勢を自分で理解し、周囲に伝える時は、
それに見合った、その人の積み重ね、実体験が絶対に必要です。

理想や空想や教科書のコピーではなく、
それはあくまで基礎であり、軸であり、
そこから自ら何を感じ、自ら何を学び、自ら何に気付いて、
ようやく出てきた、発せられた実体験の言葉こそが、その人自身であり、
その人の本当の言葉、生き方なのだと常々、感じています。

僕は文章のプロではありませんが、
言葉を操るプロであることには間違いありません。

普段はこのブログでも、言いたい放題、
耳障りな表現や歓迎できない言葉を使うことも頻繁にあるのですが、
何故、それが出来るのかと言えば、
全て自分の経験から学び、感じ、発せられるもので
そこに確固たる信頼と責任を持つ姿勢があるからです。

これから自分の中にあるものを、第三者に伝えなければいけない、
またはお伝えしたいと思って
日記やブログやその他の方法で言葉を伝えようと思っている方、
既にそうされている方、
色々なスタンスでそれらと向き合っておられると思うのですが、
自分が出した言葉は、自分の子供と同じ、
自分が示した生き方、姿勢は、やはり自分の子供と同じと思って
その全てに責任を持たなければいけません。

そこが理解できると、おのずと、
他人のセオリーのコピーや物真似だけを表現し続けていくことに
必ず限界があることを知ることでしょうし、
それをやっていることが気持ち悪くなることでしょうし、
やはり、おのずと、「自分の体験では●●だった。」という
その人らしさが否応なしに出てくるものだと確信しています。

これは、言葉のプロとしての視点から感じる事実なのですが、
色々な経験から学び、実感している自分らしいブログや日記を書くコツ、
理解してもらう素質のある人に、より伝わりやすい、
自己表現のコツの1つだと思います。

自分らしさとは、実体験、そして
そこから何に気付き、何を学んだかの数そのもの。

自分の体験が伴わない、気付きや学びが伴わない
言葉からは、何も感じ取るものがありませんし、
心の奥底に伝わってくるものもありません。

僕が一見、とりとめもなく書き続けている
日常のどうでもいいことから、はたまた、そこで感じたことから、
物事の本質に入っていく日記のスタイルは、
そのまま僕の生きる姿勢を示しています。

全ての人にお勧めできるものではありませんし、
全ての人が実践できるものではありませんが、
これを始めるのに、年齢も環境も一切関係ありませんし、
この習慣を長年かけて身につける大切さを教えてくれた人たちがいたからこそ、
自らの力で考え、自らの足で立ち、人生を歩んでいく・・・という
本当の意味で幸せな人生の進み方を
習慣づけることが出来たのだと感じています。

勿論、この考え方、生きる姿勢、作業はまだまだ発展途上であり、
僕がこの世を終えるまで、一生続けていく予定です。

一生ものの何かを学ぶ機会は、
人からも、見えないその他の先生たちからも
学ぼうと思えば、自らの意志でいつでも、どこでも学ぶことが出来、
気付くことが出来、そこから、ようやく、
本当の自分作りというものが始まるものだと思います。

僕のブログが、僕の生きる姿勢が、
全て、このナカトリモチ日記やナカトリモチの活動に凝縮されている所以、
その真意が伝わる方には、
しっかり、お伝えできたのではないかな・・・と感じています。

人は、いつでも、どこでも、どんなことからも学び、気付き、成長できるもの。

僕も常にその気持ちを忘れることなく、
自分なりの日々の生活と向き合っていきたいと思います。


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Posted by 山野本竜規 at 08:03 │心の在り方 (2,645)▼