山野本竜規の続・ナカトリモチ日記
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不運や不幸、認める勇気を持ちましょう。

2013年11月19日

不運や不幸、認める勇気を持ちましょう。写真は、9月に訪れたスロベニアに向かう途中、
飛行機から眺めていたアルプス山脈の様子です。

眼下に広がるアルプスを観ていると、
僕自身、「綺麗だな~。」とただ感じるだけではなく
偏屈な性格が災いしてか、その逆のことも
一瞬、頭をよぎるというか、考えてしまうことがあります。
それは・・・。

縁起でもないことかも知れませんが、
「この雄大な景色のアルプスは、確かに美しい。
でも、その反面、この山に魅せられ登ったはいいけれど、
過去、どれくらいの人たちが、ここで命を落としたのだろう。」という
綺麗とは対極にある部分のことです。

人の生死も、全てという訳ではないけれど、
こういった見えない采配というか、運というか
そのような何かしらのものが関わっているのではないかな・・・と
常にそれを感じながら生きているところがあります。

これは昔から、そういう性格なので仕方のない部分なのですが、
1つの物事をただ単純に「こうだ!」と受け止められないところがあります。

ある時、ちょっと無理な背伸びをして海外の上等なホテルに宿泊した時のこと。
ちょうど友達と一緒に旅行をしていたのですが、
チェックアウトの時間が近づいてきて、荷物の整理をしていたところ、
レセプションから1本の電話がかかってきました。

「こちらのホテル、快適にお過ごしになられましたでしょうか。
またのご利用、お待ちしておりますね。
私たちホテルは、あなた方のまたのお越しを大歓迎しますから。」

まあ、内容は超ご丁寧な決まり文句だったと思うのですが、
一緒にいた友人は、とても感動して
「あぁ、やっぱり高級ホテルって、こうやって丁寧にお礼の挨拶の電話をしてくれるんだね。」と
素直に喜んでいました。

ただ、偏屈な僕は、そのレセプションの真意を読み取っていたので
素直に喜ぶどころか、冷静に、「あぁ、チェックアウト急いでね。という催促ね。」と
心の中で受け止め、喜ぶ友人をよそに、
「少しペースを早くして荷造りしようね。」と促したのを覚えています。

さすがに、純粋に喜ぶ人に対して水を差すような真実は伝えられませんから(笑)

どういうことかというと、チェックアウトの時間は午前11時。
レセプションからの連絡があったのは、その5分前。

言葉は、「快適にお過ごしになられましたでしょうか。
またのご利用お待ちしておりますね。いつでもウェルカムですよ。」ですが、
要するに、裏を返せば、「もう時間だから、そろそろチェックアウトしてね。」が
その本質なのです。

これは、紳士的な、大人なコミュニケーションの1つだと思いますが、
このように言葉1つとっても、
単純にそのまま受け取っていい・・・という訳ではありません。

ある意味、偏屈でしょう?

純粋にその言葉の良い部分だけを受け取れることが出来れば、
それはそれで幸せかも知れませんが、
世の中には、そういう本音と建て前、プラスとマイナス、光と影、
その両方が必ず存在するという真実を冷静に受け止めているので
やっぱり、1つの事象だけを単純に「こうだ!」と判断できないのです。

でも、そういう偏屈な自分も大好きで、
「世の中なんて、光と影、プラスとマイナス、両方あるもの。」という
歴然とした事実を、意外と冷静に受け止めているところが
子供の頃からありました。

高校時代、試験の要領だけは良かったので大学進学の特別クラスに配属され
大学受験の試験対策のため、
別のクラスの生徒より勉強時間が多い環境だったのですが、
僕は、その頃から偏屈というか、先ほどお伝えした冷静な部分が
どうにもひっかかって仕方がなく、
当時の担任の先生の言うことは、全くと言っていいほど信じていませんでした。

僕自身、もともと普段の成績が良かったのではなく、
単に要領良く一夜漬けの勉強で定期テストの点数を稼いでいただけの
根っからの勉強嫌いだったので、
そういう類の人間がほとんどいない特別クラスの中で
その担任にとっては、あり得ない、
とても厄介な問題行動ばかりを起こす生徒だったのです。

早朝授業や放課後授業、夏休みの勉強合宿、
全部、当時の僕からしてみると優先すべきことではなく、
ルールを無視して、1人ボイコットすることが多くありました。
だから当時のクラスメイトたちからつけられた僕のあだ名は、「社長」です。

社長出勤、もといルールを守らない遅刻の確信犯だったから。

これは、僕なりの信念があって、もともと学校の開始時間は
当時で8時45分からだったので、午前7時から始まる特別授業には参加せず
通常の授業開始時間には間に合うように登校し、
放課後は、これまたやるべきことを優先するため
フツ~に下校していた・・・という徹底したものでした。

だから、僕からしてみれば社長出勤でも何でもないのですけどね。

また、特別クラスはアルバイトは一切禁止というルールがありました。

ですが、僕の家は当時経済的にどう見ても貧しく
大学進学のお金すら準備できない状況でしたから
やはり、バイトもしなければいけませんでしたし、
大学へ進学するとなると、自分で稼ぐ他、道がありませんでした。

ルールはあるけれど、それを守ってばかりいては
生きていけない、その後の人生が成り立たない、
しかも、それを補償してくれる人なんて誰もいないし頼ることすら出来ない・・・。

そのような覚悟というか、自立する気持ちが出て来た時、
ちまちまと、バイト禁止令なんて守っていられる状況ではありませんでした。

僕の中では、この頃既に、ある程度の目標設定があって、
「放送局の就職、アナウンサーという仕事に就くためには、大学卒業が条件。
とにかく大学に行かなければいけないから、自分で稼ぐ道を考える。」、
それがその時の最優先すべきことだったのですが、
担任は、「経済的な事情は子供が心配すべきことではなく、
とにかく努力して勉強して大学に合格することが優先。」と
全てにおいて、真向から対立することばかりでした。

本当に、生き方、価値観、方向性、全てが違って交われない人が
この世には、いるものなんだな・・・と、この時、初めて理解したような気がします。

当時の担任は、子供の僕から見ても何かが足りていない単純な人で、
「受験勉強は、とにかく努力。努力すれば必ず報われる。
だから時間を惜しんででも勉強しなければいけない。」と
本気で信じて、それを伝えることが使命とさえ感じていた人でした。

一方の僕はというと、
「こういう精神論だけに傾倒して現実問題を直視できない単純な大人、まだいるんだな~。
よっぽどの世間知らずか、人生勉強不足なんだろうな。」と、
本当に可愛げがないほど冷静に
その先生の言動を受け流していたのですが、
これ、コテコテの日本人の悪い癖の1つだと感じています。

全てが平等、全てが努力次第で報われ、良くなる。
(本当は、そうでないから、そうあって欲しい・・・という無意識の願望なのですけれど。)

こういう精神論大好き人間、日本人には山ほどいるのではないでしょうか・・・。

ハッキリ言いますが、こういう人たちは純粋かも知れませんが
やっぱり現実を直視できていない、人間勉強が足りない幼稚な人たちだと思います。

まず、受験勉強や試験は、平等ではありません。
受かる人もいれば、落ちる人もいる。

努力すれば報われることもあるかも知れませんが、
必ずその通りになるとは限りませんから。

勿論、本人なりのベストは尽くす。尽くすけれど、
やっぱり、その時の体調や出題される問題の得手不得手など
本人の力量、努力の量だけでは
どうしようも出来ない、その時の運、不運というものが存在します。

ベストを尽くす努力、実践が8割だとしたら、残りの2割はその時の運。

当時、僕は周囲のクラスメイトを観察していて
「あぁ、これはいくら努力しても、本人が希望する大学には
合格しそうもないな。早く進路変更したらいいのに。」と一目で分かる生徒に対しても、
その精神論だけの担任は、「努力すれば必ず報われる!」と
伝え続けていて、僕自身、とてもシラけていたのですが、
結果的には、やっぱり僕の予想通りで
その生徒は、のちのち別の進路変更をせざるを得なくなりました。

そういう時、あの精神論だけの担任は、どう説明したのでしょうかね。
「努力すれば必ず報われる。」と信じて
それを皆に言い続けてきたのに、そうではなかった。

本当は、もっと現実的な話をするべきです。
高校生とは言え、もう自立すべき年齢なのですから。

本来であれば、「最善を尽くすことは大切だから、とにかくベストを尽くす。
それで結果が伴うこともあれば、そうでないこともあるけれど、
それはその時の運もある。
だけど、良い結果も、そうでない結果も、
その全ての結果が次に繋がるから、やれることをやっていこう。」と
もし、僕が担任の立場だったら、そう伝えているだろうな・・・と
当時、生意気な高校生なりに、そう感じていました。

そう、僕の今の生き方、主軸になっている価値観は、
実は、さほど生意気な子供の頃と変わっていないのです。

これは受験勉強にしても、就職試験にしても、その他の人生の出来事
全てにおいて、こういう価値観、物事の受け止め方で
日々の生活を送るようにしています。

実は、高校生当時、
「あぁ、この生徒は第一志望は努力だけでは無理だろうな。」と感じて
結果その通りになったクラスメイトと、
20代後半になって偶然再会したことがあったのですが
社会人になって、本人になりに色々な悩みや課題と向き合いながらも
イキイキと生活しているのを垣間見ることが出来ました。

「あぁ、あの時、無理して努力は報われる・・・を信じて
何度も留年して受験を繰り返すより、その時の結果も、不運も受け止めて
そこから方向転換して前に進んだのは、間違いではなかったんだな。」と
そのクラスメイトの姿を見て、嬉しくなったのを覚えています。

所謂、その時の結果だけが全てではなく、
長い長い目で見れば、本当に良かったのか、そうではなかったのか・・・だなんて
誰も決められるものではなく、
亡くなる直前に、本人が「あぁ、あれこれあったけれど、良い人生だった。」と思えれば
それでいいんじゃないかな・・・と思っています。

受験に失敗した、就職が上手くいかなかった、
結婚相手選びに失敗した、離婚した、リストラに遭った、
病気になった、借金が出来た、周囲の人に認めてもらえなかった・・・。

所謂、この世で不幸、不運とされる種は、いくらでも存在します。

しかも、良い出来事も、そうではない出来事も
過不足なく経験するのが、この世の常なので
その時の結果が全てという訳ではないと感じています。

長い長い人生の中のほんの一瞬、
衝撃的に辛く大変で不幸のような出来事に見舞われたとしても、
それがキッカケで次の新しい扉が開かれる人生なんて
この世にいくらでも存在しますし、勿論、そうではない場合もある。

こればかりは、その時の運、不運。

ただ、ある程度、自分の素材というか、分相応を知った上で、
自分が信じた道、自分が「これだ!」と好きで始めた道を、
誰が何と言おうと間違いであろうと、不幸に見舞われようと進み続けていれば、
おおよその人は、人生自体、幸せを感じることが出来るものだと思っています。

天や神を恨みたくなるほど理不尽なこと、
そのような嫌な人たちも、不幸や不運も出来事も、
この世の中には沢山あるものですし、必ず存在するのが当たり前。

努力だけでは、どうしようも出来ないことだって時にはあります。

だからそれを素直に受け止め、方向展開するなり、
次の対策を考えるなり、臨機応変に人生を楽しめる人のほうが
必ず結果的には、トータルで見て幸せだと感じています。

不幸や不運は、努力をすれば退けられる、
努力をすればいつも幸せ、報われる・・・。

これに拘り続けている人たちは、
いつまで経っても本当の意味で満たされる人生というものを
知らないで欲求不満のままなのではないかな・・・と思います。

世の中には良いことも、悪いこともあり、
それは誰の身にも起こり得ること。

起こってしまったら、それを受け止め、
次に出来ることを考える。出来なければ、また次の道を考える。

そうやってマイナスになるものを受け止め、流していけば
そのうち、そうではない流れに乗ることだって出来ることでしょう。

逆に言えば、不幸や不運を経験しているからこそ、
光の部分、ちょっとした喜びや幸せを
しっかり、ひしひしと噛みしめ、じっくり味わえ、
感謝の気持ちを心から感じられるものなのではないでしょうか。

この世の中には、特に日本人には
未だに精神論だけが通用すると信じてやまない人たちが
意外なほど多いのですが、
僕自身、やはり、そういう人たちとは心から仲良くなれません。

目指す方向性が全く違いますから。

人生は、もっとラクで軽く方向転換してもいいものなんですけどね。

ただ、こればかりは、幸せを見出す感性というか、人間力の部分で
教科書や学校では、そのノウハウを教えてくれませんし、
自ら鍛えなければ、自ら意識して伸ばそうとしなければ伸びない部分で
不幸や不運から何も学べない人もいるので
その人の素材というか、人生の向き合い方、生き方に
全てお任せするしかありません。

そんなことをつらつら考えながら、
僕は日常の風景や人の言葉、全ての事象において
その両方のエネルギーを感じたり、思いを馳せるようにしています。

物事を深く見つめると、通り一遍の単細胞で生きるより
心も豊か、人生も豊かになれると思って僕は生きていますよ。

妄想万歳、想像万歳。

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Posted by 山野本竜規 at 08:13 │心の在り方 (2,645)▼