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心で向き合う掃除と人生、自然霊とスピリチュアル。
2013年12月05日
そろそろ大晦日やお正月を迎える準備に向けて
エンジン始動・・・という方も多いのではないでしょうか。
僕は元来、スロースターターというか
本番近くにならないとエンジンがかからない
マイペースなところがあるので、
まだまだ年末年始に向けての準備の実感が湧きません(汗)
ちょうど去年の今頃は、
オーストラリアで世界各国から集まった人たちと共同生活をしていたので
改めて実感しているのは、あの独特の師走の感覚、
年末年始に向けて動き出す、または仕切り直しをする感覚は
やっぱり、日本独特の雰囲気、時間の流れ方だな・・・ということです。
欧米諸国では、お正月、つまり新年を迎える区切りよりも、
それより少し前にある、クリスマスのほうが断然大切なイベントで
むしろ、クリスマスはお店はほとんど閉まって街は閑散とし
家で静かに家族と過ごす・・・というのが定番なので
このクリスマスこそが、
日本のお正月に近い感覚なのではないかな・・・と感じています。
だから、年末のカウントダウンの感覚も、
日本の「新年を迎えるぞ。」という居住まいを正すような感覚に比べれば
どこかまだ軽いノリというか、その想いの入れ方が違っていて
「あぁ、こんなにあっさりしたものなんだ。」と、
これはこれで良い経験になりました。
きっとクリスマスを粛々と家族で過ごす欧米の人たちが
日本の賑やかなクリスマスの様子を垣間見ると
同じように感じることでしょうね。
ところ変われば、その過ごし方も、時間の流れ方も捉え方も
全く違うように感じるものです。
僕はもともと神社で育った人間なので、
年末年始の慌ただしさは毎年恒例で
その中でも特に大切なことの1つが、年末までに行なう大掃除でした。
専門用語では、大祓(おおはらえ)と呼びます。
人の滞ったエネルギーをある程度綺麗にするためには
ただのお祓いだけではなく、
その人が生活する家や職場などの整理整頓をし、
その掃除をしていく過程で、色々な気づきや心の問題が解消されていく
大切な行事の1つとして、
これだけは徹底して行うようにしていました。
所謂、断舎離や整理整頓の大切さが声高に叫ばれ
そのブームが訪れる随分前の前の前から、
日本人であれば、それらは当たり前の生活習慣の1つとして
フツ~に実践していた、この世を健全に生きるための叡智の1つだったのです。
とても嫌味な言い方に聞こえるかも知れませんが、
そういう事情から、僕からしてみれば、
「何を今更、当たり前のことを・・・。」という感覚で
それらのブームの経過を見守っていましたが、
逆に言えば、本来日本人が兼ね備えていた叡智、
生活の知恵、その「当たり前」の大切さが
重要視されずに薄れてきた時代だからこそ
復興の意味を込めて、そのブームが再来しているのではないかな・・・と思います。
「見えないものは、ないもの。」「見えることだけが、全て。」という
現代の欧米主体の価値観は、残念ながら明確な時代の別れ目がはっきりしていて
第二次世界大戦後、
GHQが日本の教育を一新した時から変わってしまいました。
今更、そのことをあれこれ言うつもりはありませんが、
そういった経緯を経て、
「結果が全て、お金が全て、成功が全て、物質が全て」という
息苦しいバブル期を経験し、
もう一度、人にとって何が大切なのかを見出していく人たちが増えた結果、
物を大切にする、なるべく持たないで生きるようにする、
整理整頓をする・・・という流れになって
今のブームになっていると思うので、
この点に関しては、とても歓迎すべきことだと感じています。
閑話休題。
掃除の話に戻しますね。
神社、はたまた昔の日本人が、
何故、そこまで周辺環境の清掃、つまり心身共に
清浄であることを良しとし、その習慣を大切にしてきたのでしょうか・・・。
神職時代、神職自身が汚れたエネルギーをまとっていたら、
それこそ、お祓いを受ける側の人にも清浄な空気、エネルギーは
届かないものですから、
神社神職の基本というか、神職の一番大切な仕事は、
お祓いやご祈祷よりも、先ずは掃除、その次に掃除、最後に掃除・・・と
とにかく徹底して境内や周辺環境を清浄にしておくことを
覚えさせられたものです。
元来僕はグ~タラな怠け者ですから、
出来ることならラクして掃除の回数を減らしたいタイプです。
伊勢神宮やその他のお社で奉職していた時、
朝の始まりは祝詞奏上の前に、先ずは潔斎(けっさい)という
自らの心と身体を清める入浴から始まり、
朝一番にやることは、何よりも掃除から始まるのが通常でした。
正直、「えっ!?昨日も同じ柱を綺麗に磨いたし、まだ汚れてないから
別に同じ箇所拭かなくてもいいやん!」と
悪態をつきそうになることもあったのですが(若かったので。)
それでも、云も言わさず、徹底して掃除をさせられます。
僕にとっては強制、強要以外何ものでもなく、
まるで軍隊の生活のようで嫌気がさすこともあったのですが、
人って、何かを徹底的に覚える時、習得する時には
ある種このような強制的に一方的に継続させられることって
必要なこともあるような気がします。
よく考えれば、子供の頃に習い事をする場合、
それがピアノやバイオリンや習字や珠算などにしても、
色々なスポーツの分野にしても、
子供が希望する云々は別として、多少の強制で
「させられる」ことからスタートして
のちのち、その素晴らしさに気づいたり、才能が開花する場合だって
ある訳ですから、
全ての場合で同じことが言える訳ではありませんが、
何かを習得、力をつける時の強制って時には有効なのだと思います。
勿論、僕も後者のタイプ。
嫌々ながら「させられている」うちに、
その素晴らしさ、何故、それらをやらなければいけないのかの本質に気づいて
今の人生に大いに役立っているのが
掃除とエネルギーの関係性についてのことです。
今、ナカトリモチとして見えないエネルギーと日々向き合う生活をしていますが、
やはり清浄な状態の家、空間と、
そうではない物が多くてゴチャゴチャした家、空間とでは
圧倒的にエネルギーの質、匂い、土地・家屋、大自然、霊的世界から受けられる
応援エネルギーの量が違うのです。
勿論、神社神職のように毎日毎日汚れてもいない箇所を
入念に掃除する必要はありませんし、
そこまでくれば、もはや神経質の心の問題を疑ったほうがいいくらいなので
適度に綺麗にしておく程度でいいと思いますが、
やはり、汚れているよりは、ごちゃごちゃしているよりは
綺麗に整っていたほうが見た目も気持ちもスッキリするものです。
神社神職時代、最初は嫌々ながら毎日毎日、同じところを掃除させられていると
僕の場合、ある変化が出てきて
「見た目の問題じゃなくて、そこに心を込める、想いを込めるってことじゃないかな。」と
自然と感じた瞬間がありました。
世間一般で言われている、オーラマーキングの大切さです。
直接自分の手を使って、身体を使って家を掃除することによって、
その想い、エネルギーは、確実に建物や家具、その他のものに付着します。
その時、「くそっ、なんで汚れてもないのに同じとこやらなきゃいけねんだよ!」と
悪態をつきながら掃除をするのか、
それとも、「この柱がいつまでもこの建物を使う人たちが
安全に過ごせる役割を果たせますように。」と想いを込めて掃除をするのでは、
同じ見た目は、「掃除をする」行為なのですが、
見えないエネルギーには雲泥の差が出てきます。
悪い想いは、ガムを吐き捨てた時のようにネバネバした汚い状態で
その家に付着して居心地を悪くしますし、
良い想いは、暖かい太陽のように清浄な状態で
その家に付着して居心地を良くする御守りになります。
掃除だけではなく、洗濯物をたたむ時も、料理を作る時も、
人の身体に触れる時も、会話をする時も、仕事をする時も・・・。
所謂、全ての生活の基本が、そこにあるのです。
想いを込める、心を込めて全ての物事に向き合う姿勢は、
そういうちょっとした日々の生活の言動に全て表れてきます。
同じ家を掃除する場合でも、
「ドタン、バタン!」と騒々しく雑に掃除機をかけたり、
雑巾がけをしたりする人も多く見かけますが、
エネルギーの観点からみれば、完全アウトです。
まず、家が傷む、エネルギーを痛めつけている・・・という
見えないものに対する配慮が欠けていて
「ただゴミを吸い取る、見た目を綺麗にする」ということだけに
無意識に重きを置いている証拠。
音には、音霊(おとだま)というエネルギーが宿ります。
騒々しい音、雑な音は、
その場の清浄で穏やか平穏なエネルギーを一気に弾けさせ
見えないけれど、とてもグチャグチャで荒々しいエネルギーに変えてしまう
厄介な側面があるのです。
家のことを考えたり、その場に宿っている清浄なエネルギー、
穏やかで平和なエネルギーに心を寄せることが出来る人は
その大切さを理解しているので、
必要以上に騒々しい音を立てることは絶対にしません。
勿論、あまりにも静か過ぎる家、環境は
僕も逆に落ち着かなくなるのであまり歓迎は出来ませんが、
やはり、必要以上の騒音を立てる、
または雑な音に敏感かどうかということは
その人の心豊かな人生を歩むための感性のバロメーターの1つと
位置づけていいのではないでしょうか。
神社の柏手(かしわで)も、その1つですね。
ただやみくもに、力強く「パン!パン!」と打てばいいものではなく、
そこには柔らかさ、相手を想う気持ち、平穏など
全てのエネルギーを見据えた上での含蓄のある音が響きわたります。
これ自然霊に好まれるか、避けられるか・・・という
大きなポイントの1つとなります。
自然霊はとても繊細で柔らかいエネルギーの側面を持つので
大きな音、雑な音、荒々しいエネルギーには一切感応しませんし
むしろ、そういったものを嫌い、咄嗟に姿を消すものです。
つまり、それが何を指すのかと言えば、
折角、平穏、柔らか、ほっこり幸せ・・・といった
細やかな幸せエネルギーを届けてくれる自然霊(特に花や木、植物に宿る自然霊)たちが
一気に姿を消してしまうことになりますから、
その時点で、家に宿るエネルギーの応援が1つ減る・・・ということです。
実は、以前、ある外国人スピリチュアリストが来沖した時、
沖縄のお気に入りの御嶽(うたき)を案内したことがあったのですが、
この人、スピリチュアル的に良い技術と才能を持っていて、
世界的に有名だったにも関わらず
とてもとても残念だったのが、この自然霊との関わり方でした。
自然霊に全く歓迎されない心の持ち主、生き方だったのでしょう。
(つまりは、立場に見合う人格が伴っていなかった・・・ということです(笑))
いくら柏手を打っても、激しく何かを蹴散らすような
荒々しい音しか出ず、その場に宿っていた清浄なエネルギー、
柔らかいエネルギーを全て蹴散らしてしまったのです。
所謂、本来であれば独特の柔らかい素晴らしいエネルギーを
しっかり感じられる場所であるにも関わらず、
その恩恵を受けるどころか、全て蹴散らしてしまったので
何も感じないまま、何も受け取れないままだった・・・という
お粗末な結果でした。
これは、その人のこれまでの生き方、心持ち、全ての言動が
柏手の打ち方、心の込め方1つに表れ、
一瞬のうちに自然霊に見抜かれ、応援を拒否された
見事なまでに顕著で分かりやすい出来事で、
僕は、このことからも、「あぁ、スピリチュアルな才能って
能力、技術だけではやっぱりダメなんだな。」と改めて痛感した次第です。
どのような仕事でも、人生でも同じことが言えますが、
最終的には、その人の生き方、心持ち、人間力、人柄こそが大切であり
それを磨かないことには、どんな分野の人であれ、
本当の意味で人を喜ばせ、幸せにするお手伝いは出来ません。
殊、スピリチュアル業界には、
技術やスキルの上達、習得、はたまた自分探究だけに重きを置いて
それだけを目指す人たちが大勢いますし、
僕がそういう団体から離れ関係を持たなくなったのも、
まさにここが大きな要因でもあったのですが
日々の生活の中で、心を込める生き方が出来ない人たちは
結局のところ、何をやっても、何を求めたとしても
中途半端なままで、ダメなままだと確信しています。
掃除1つとっても、そう。
料理1つとっても、そう。
人との会話、向き合い方1つとっても、そう。
心や想いを込めていれば、それなりの結果が伴ってきますし、
エネルギーでは大きな変化を感じられます。
本当に大切にすべき基本中の基本は、
やはり、技術習得や才能以前の問題であり、
本当の意味での自分探しをしているのであれば、
それら基本となる生活の所作の数々が
普通に実践できてこそ、それが当たり前であり、
その基本なくして、次に繋がるものは何もないのです。
この大切さを理解できる人、意外にスピリチュアルを学んでいる人には
伝わりづらい部分でもあり、オーストラリアではそれが顕著でした。
掃除は誰だってやりたくない、嫌な人、言いづらいことはなるべく言いたくないし
向き合いたくはない・・・誰だって同じです。
ですが、そこを避けてばかりいては
心を込める生き方の実践が出来ませんから
何度もその大切さを伝えてきましたが、残念ながら
「それはあなたのトラウマと日本人的な習慣が要因です。」で
片づけられるばかりで終わってしまいました。
「トラウマ、あなたを取り巻く人生背景、環境が影響している。」
スピリチュアル業界ではよくあることですが、
何か図星のこと、的を射たことを言われて
そこと向き合わなければいけない時に、
それを直視しようとせず言い逃れをする際、
逃げ口上の1つとして、相手側がよく使ってくる常套句の1つです。
こんな堂々巡り、逃げてばかりのことを繰り返しても
その人が本当の意味で変わることはありませんし、
何か大切なことに気づくことなんてあり得ません。
僕がよく、スピリチュアルに関心を持つ前に、
まず、1人の人間として自分自身の生活、
人生を成り立たせる行動をとりましょう・・・とお伝えするのは
まさに、そういう所以であり、
それが出来ずにスピリチュアルな何かに逃げ込む人たちが
あまりにも多い現状にうんざりしているところがあるからです。
日本の文化、外国の文化のどちらが良くて
どちらが悪いという訳ではありませんが、
自然霊の観点からみると、圧倒的に日本的な柔らかさ、
物事のわびさび、対象物を思い遣る心をもっている人たちのほうが
自然界からのエネルギーの応援が受けやすくなっています。
日本人でも荒々しい生き方の人もいますし、
外国人でも繊細で柔らかい生き方が出来る人もいますので
そこに国籍、文化、習慣などは一切関係ありません。
要するに、やっぱり最終的にはその人次第だということ。
年末の大掃除、整理整頓は大変かも知れませんが、
もし、皆さんが見えないかも知れない、感じないかも知れない、
聞こえないかも知れませんが、
確実に存在して応援して下さる、
見えない霊的世界や大自然のエネルギーの力を味方にしたいと
思うのであれば、
どのような取り組み方が大切となってくるのか、
自然と見えてくるものがありますよね。
心を込める、想いを込める、
1つ1つの仕事、家事、人、出来事と向き合っていく・・・ということは
そういうことです。
その積み重ねさえあれば、
年末年始だろうが、他の時期だろうが、
実のところ、あまり関係がないような気がします。
皆さんも、ご自身なりのペースで、
1つ1つ心と向き合う、悔いのない師走の時期をお過ごし下さい。
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Posted by 山野本竜規 at 10:25
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