山野本竜規の続・ナカトリモチ日記
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清く、正しくあろう・・・としない。

2011年05月18日

清く、正しくあろう・・・としない。今日の沖縄地方は、風が強いものの、
本当に久しぶりの澄み切った青空が広がっています。

しっとり雨も良いけれど、梅雨の時期に時折見せる
澄み切った青空を眺めていると、
それだけで、気分爽快になるものです。

今日は、この快晴に後押しされて、
朝から家の中の掃除と、洗濯などを、まとめて一気にこなしました。

今日も、このあとお祓いの仕事が入っているのですが、
清らかな雨のお祓いと違って、
今回は、快晴の下の、大自然の風が、風祓いとなって
応援して下さるような気がしています。

人の心も、常にこのような清浄な状態を保っていければ
とても理想的だと感じていますが、
僕は、極論から言えば、別に清浄な心だけを持っている人なら
この世で生きている意味すらない・・・と思っています。

昨日たまたま、ある方とお話をしていて、
ふと、その方が、
「ある特定の人にライバル心を持ったり、その人の生き方自体、
 仕事のやり方自体を目にすると、心が荒立ってしまう。
 そんな自分の心の器が小さく感じて、自己嫌悪に陥ってしまうんです。」と
心のうちを吐露して下さいました。

僕は、この方が、あまりにも真剣に悩んでおられたので、
失礼ですが、とても拍子抜けして、ケラケラ笑い飛ばしてしまいました。

何故なら、これって、
正直、悩む必要のない、至極当然の人としての感情だから・・・。

とても純粋に自分の仕事や人生、生き方を実践されている方の中には、
あまりにも生真面目過ぎて、無意識のうちに、
「人として、常に清く、正しくあろうとしなければいけない。」と
強く思い込んでしまう場合があります。

もう一度、繰り返しますが、「無意識のうちに」です。

でも、そんな完全無欠な状態の人って、
ある意味、この世で生きている意味なんてないですし、
そんな人間味がない人、僕は、お友達になんかなれません。

よく、中途半端なスピリチュアル系マスターや、
自己啓発セミナー系の講師と呼ばれる人の中には、
中途半端に、「私は、この世で嫌いな人なんて存在しません。」
「みんな、愛の存在なのですから、みんな、愛しています。」と
これまた、薄気味悪い中途半端な作り笑顔をまき散らして
ところ構わず、ハグを求めてくるような
厄介な連中を見かけることがあります。

正直、気味が悪くて、近寄りたくありません。

皆さんなら、どのように感じられますでしょうか?

僕だったらすぐに、「お前、絶対、嫌いな人、ニガテな人いるだろ?」と
即、ツッコミを入れながら(勿論、心の中で。)、
そのまま、後ずさりしながら関わらないようにするでしょうね。

心は、嘘をつきません。

魂や、エネルギーは、もっと嘘をつきません。

だから、別にエネルギーに敏感でない、普通に生きておられる聡明な方であれば、
「皆が愛の存在で、皆を愛しています。」なんて
軽々しくのたまうような人たちを、両手広げて迎え入れようとは
絶対に感じないと思うのですが、
僕は、これこそが、この世で生きている人間が、人間である理由だと感じています。

霊的世界から観れば、
確かに、この世で生まれ出てくる人たちは、
皆、全て愛の存在だというのは、事実です。

ただ、それは、とても深い深い広義的な意味合いであって、
霊的世界で通用する事実であって、
この、人間界という世界においては、
それぞれが、「個」という肉体を以て生まれてきているので、
霊的世界ほど、広く物事を見据えられる人間なんて、
世界中探しても、本当にごく稀な存在だと思います。

あえて、狭い視野になってしまう人間という
肉体に宿ることによって、「自分」と「他人」から
強く何かを学びたい・・・と思って、
わざわざ、この世に生まれてきているにも関わらず、
「自分」と「他人」は、皆、一緒。

だから、皆を愛して、嫌いな人はいない・・・。

だなんて、あまりにも、短絡的で、単純すぎる発想だな・・・と
僕自身、とても薄っぺらく感じてしまいます。

勿論、それを目指すこと、意識することは、
絶対に、絶対に、大切なことなのですが、
この世で生きていれば、
嫌いな人、許せない人、ニガテな人の1人や2人くらい存在するのが当然ですし、
その人の何かに触れた時、心が荒立ってしまうのも、
至極当然の現象ですから、
必要以上に、「なんて自分は小さな人間なんだ。」と悲観し過ぎないことが
大切なのではないでしょうか。

しかも、それが仕事相手であろうが、友達付き合いであろうが、
血のつながった家族であろうが、全て、同じことが言えます。

僕なんて、思い出したら、5本の指で収まらないくらい
嫌いな人、ニガテな人、こんちきしょうと感じる人、いますよ。

ただ、必要以上に、悲観しません。

人を理解する努力を放棄しているのではなく、
そのような人たちと出会った時、
自分が心を荒立ててしまう原因を、しっかり観察しています。

たとえば、仕事相手で、嫌な人がいた場合、
「自分は、何故、この人にだけ怒りを覚えるのだろうか。」
「そっか、努力もせずに、上っ面のおべっかだけで生きる手段が許せないからか。」
「じゃ、自分にそれが出来るのか・・・と言えば、絶対に出来ない。」
「だったら自分は、その人を反面教師にして、
自分が信じる、逆の道を、自信を以て生きて行こう。」と
ある程度、自分の核となる部分を見つめ直し、
気付くチャンスが与えられるようになります。

一番、気の毒だな・・・と感じるのは、
嫌な人、ニガテな人、トラブルなどに、いつまでも振り回され、
恨み続け、憎み続け、執着し続けるようなタイプの人です。

正直、死後もそのまま行くべき世界に行けずに、
未浄化霊になって滞ってしまう厄介なタイプなのですが、
このような人は、なかなか、マイナスの経験を
人生の糧にする、乗り越える・・・という努力をされようとしません。

悪い意味で、頑固なのです。

頑固という言葉だけでは、足りないので
もっとリアルにお伝えすれば、
その姿、立ち居振る舞い、表情、生き方、
全て、超ブス、不細工ですよ~。

皆さん、人に対する恨みで我を忘れた丑の刻参りをする人の姿、
マンガでも、テレビでも、一度は、ご覧になった方も多いのではないかと思いますが、
表面上は笑顔でも、心の中は、丑の刻参りをする人のような
悲壮感たっぷり、執着たっぷりの表情、姿、ご想像できますでしょうか。

まさに、あの状態が、悪い意味で頑固な人の執着心たっぷりな、
リアルなエネルギーの姿です。

あな、恐ろしや・・・。

僕は、なまじっか、その姿をエネルギーでも感じ取ることが出来るので、
「絶対に、あのような生き方、姿にはなりたくないな。」と感じて
それとは、対極の生き方をしようと、努力するようにしています。

嫌な人、ニガテな人、はたまた、トラブルと呼ばれる様々な災難は、
ある意味、心の負荷がかかることかも知れませんが、
他の誰でもない愛すべき自分の信念、生き方を
しっかり再確認できる、またとないチャンスだと確信しています。

このことについては、過去のブログでも、何度もご紹介してきました。

*参考記事*

*何故、嫌な人が存在するのか。
*「木の芽どき」に、ご用心。
*父の命日に思うこと。
*台風と、人生の困難の共通点。

この事実に気付くことが出来れば、
たとえ嫌いな人がいようが、許せない人がいようが、
有り得ないような人生の困難に直面しようが、
一時的に感情を荒立てたとしても、
その事象と対峙している意味を、自分の人生のこととして
冷静に捉えることが出来るようになります。

そして、必要以上に、悩まなくなります。

悩むこと自体が悪いことではなくて、
悩み過ぎて、目の前の光を見失うことこそが、ゆゆしきこと。

人生を、より心豊かに、明るく生きていくためのコツは、
そのような、程よい塩梅、バランス感覚を持てるか、どうかだと感じています。

そして、いつも感じています。

文章でお伝えすること、言葉で表現することは簡単で、
それをお読みになる方が、「言葉だけ、頭だけで理解する」のは
もっと簡単です。

ただ、心からの理解、実践・・・となると、
一気に、それを分かっておられる方の数は減るような気がしています。

そう、人は誰でも、この世に産まれてきたのであれば、未完成。

自分の欠点を改善する努力は、絶対に必要ですが、
自分自身を責め立てる必要は、全くないと感じています。

嫌いな人がいようが、許せない人がいようが、
理不尽なことがあろうが、感情が揺らぎながらも、
前を見据えて、自分の信じた道を突き進む・・・。

そんな人こそ、素敵に成長できる人だと感じていますから。

必要以上に、無意識のうちに、
清く、正しくあろう・・・と、されなくて結構です。

清く、正しいエネルギーは、試行錯誤しながらも
直向きに生きる皆さんの心に、しっかり宿るものなのですから・・・。


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Posted by 山野本竜規 at 12:42 │心の在り方 (2,645)▼