山野本竜規の続・ナカトリモチ日記
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波長の法則、人生には立派なカースト制度が存在します。

2015年11月18日

波長の法則、人生には立派なカースト制度が存在します。昨日、1泊2日の関東出張から戻ってきて、その日の午後と、
今日1日、ずっと地元沖縄での仕事でした。

先ほど帰宅しましたが、ここ数日の沖縄は異常な暑さで
石垣島では31℃を超えたそうで、11月としては
観測史上最高の記録を更新したそうです。

この数日間、北国出張から戻って1日沖縄に滞在、
そしてすぐにまた関東出張、そこから1泊してまた沖縄に戻って1日滞在・・・という、
タッチアンドゴー生活が続いており、
明日からまた関西出張のため1週間ほど沖縄の自宅を留守にします。

沖縄に戻ってくる度に、那覇空港でその温度差に身体が驚き、
空港の出口付近まで歩くとすでに汗が流れてくる・・・という
まるでデジャブのような体験を、ここ数日で何回も経験しているため、
その寒暖差にしっかり気を付けて体調管理をしたいと思っています。

波長の法則、人生には立派なカースト制度が存在します。 波長の法則、人生には立派なカースト制度が存在します。

ちなみに昨日、夜7時過ぎに出張帰りから地元沖縄の仕事を終えて帰宅したら、
部屋の温度は28.6℃。

思わず、その蒸し暑さに久しぶりにエアコンのスイッチを入れてしまったほどです。

そして今日も夜9時半現在の室温が同じ28.6℃で、
蒸し暑さは昨夜に比べれば幾分和らいできたため、扇風機を出して
今、このブログを更新しています。

日中、この時期に車のエアコンをつけることはあったとしても、
家の中で夏用の冷房や除湿、扇風機を使うだなんて、
僕もあまり記憶にないくらい、この11月の暑さは珍しいと感じています。

波長の法則、人生には立派なカースト制度が存在します。

このように年末にかけて沖縄から全国各地へ飛ぶ機会が更に増えますが、
その地域でしか味わえない季節の変化や、その土地ならではのお人柄、風土などを
思いっ切り感じられるのも、今の仕事の醍醐味の1つです。

さて今日は、普段はあまり使いたくない怪しい言葉、「〇〇の法則」とやらを、
もっと個人的に現実的な解釈に置きかけて紐解いていきたいと思います。

僕自身、
「人の人生って面白い位、見事なまでにその人らしい道付けがされているな・・・。」と感じるのは、
今のナカトリモチという仕事、お役目、宿命を担っているのは同じだったとしても、
もし僕が今の性格とは真逆で完全土着型の人間で、
「外には出たくない。」「出来れば1カ所だけに留まって活動をしたい。」
というタイプであったとしたら、
決して、今のような活動の広がり方は確実になかったと思うのです。

沖縄県民ですから神社神職の仕事も沖縄県内だけで完結することが出来るはずなのに、
今は年の半分は県外出張という生活。

僕の中での人生の大きな財産は、それがプライベートにしても、仕事にしても、
心ある人たちと出会い、心ある人たちに助けられ、心ある人たちと一緒に
何か良いものを共有し、築き上げていく過程そのものや、
そこから得られる喜びや経験そのものです。

勿論、僕の生活拠点である沖縄だけでも十分にそれは実現可能だとは思うのですが、
地元沖縄だけではない、まだ行ったことも、会ったこともない人たちと出会い、
そこから色々な新しい何かが発展していく、道が開かれていくことに、
喜びを感じる性分なので、僕にとっては願ったり叶ったりのお役目なのです。

きっと今のナカトリモチの仕事をしていなかったとしても、
誰かから止められようが、止めても無駄なほど、勝手に色々なところに動き、
色々な場所、景色、人と出会う・・・という経験は、
誰が何と言おうがやっていたと思うので、
ほぼ自分の趣味とか魂の喜びに繋がる行動そのものが、
そっくりそのまま今の僕の仕事、活動、人生そのものに繋がってしまっているのです。

こればかりは自分だけの意志、計画、行動力ではどうしようもなく、
そこには大自然や霊的世界といった見えないおおいなる存在の意図があるようにしか
僕は思えず、あとはそれに素直に従って、今、やれることをやっているのみです。

これだけ今の生活ほど僕の性分にピッタリ合っているライフスタイルは
これ以上見つからないのではないだろうか・・・と感じている僕の場合は、
自ら好んで、自分がやりたい仕事、心から喜びを感じるお役目に辿り着いた訳ではなく、
気付けば、振り返ってみたら、おのずと、そのような道に導かれていた・・・といったほうが
とても自分の中で腑に落ちる感覚があります。

よく、僕が苦手なタイプであるネットワークビジネス系、経営者セミナー系の人たちから
講演依頼や、個人的なカウンセリングのお申込みなどがあるのですが、
基本的にそのような類のお話にはタッチしないように、お断りすることがほとんどです。

何故なら、そもそもの動機が違うというか、目的自体、目指す方向性が違って、
全く話が噛み合わなくなるのが目に見えているからです。

巷では「好きなことを仕事にしましょう。」「心が喜ぶことをやっていきましょう。」と
馬鹿の1つ覚えのように、中途半端なレリゴーブスや、
自分の人生に欲求不満なセミナー中毒、自分の存在価値探しの旅をずっと続ける人たちが
これまた中途半端に喜びそうなフレーズを謳って、
何かしらのセミナーを開いたり、それ専用のカウンセリングがあったり・・・と
様々な活動の場があるように思えます。

これはスピリチュアルマニアにも共通していて、
やたらと、「あなたの魂が喜ぶことだけに専念しましょう。」と
あたかも「嫌なことは一切やらなくても、向き合わなくても結構ですよ。」という
レリゴーブスや子宮信仰信者などを大喜び&勘違いさせるフレーズで
中途半端な活動をしている輩も多いのが現状です。

それがビジネス系にしても、ネットワーク系にしても、スピリチュアル系にしても
共通しているのは、ただ1つで、
いつまで経っても「生き甲斐」「遣り甲斐」「社会と繋がりのある自分」
「意味のある自分」「存在価値のある自分」探しを続けて彷徨い歩く、
けれど何もモノに出来ずに、また次の新しい何かに依存する・・・という
負のスパイラルから抜け出せないでいる点です。

生き甲斐、遣り甲斐、人生の目的なんて良い大人が求めるものではなく、
あくまで目の前にある大切な1日、1日を丁寧に積み重ねていくことのほうが
どれだけ立派な生き方なことでしょう。

そして、そういう毎日の積み重ねが嫌で現実逃避する中途半端な人間をカモにする、
これまた中途半端な受け入れ側の人間も多く、
「私はどんな人たちも見捨てません。」「私はどんな人たちからも学びます。」
「私はどんな人たちも差別しませんし、受け入れる心の広さがあります。」アピールを
胡散臭いまでに行なって、その中途半端層を顧客にする
負の連鎖が渦巻いているのも、これまた事実。

もう、胡散臭いったら、ありゃしません(呆)。

スピリチュアルリーダーや教祖様は、とても心が広くておおらかで
どんな人でも受け入れて(本心は金を貢いでくれるカモだけを受け入れる)、
皆がウィンウィンで、努力しなくても好きなことだけやっていれば幸せになれるのだ・・・と。

何故、そんな痛々しい嘘をついてまで、
良い人ぶりたいのか、おおらかな人格者を装いたいのか、
僕にはさっぱり理解出来ませんが、
そういう胡散臭くて怪しい人間に頼りたい・・・という依存型の輩がいるからこそ、
この胡散臭い業界は、その需要と供給でしっかり成り立っていると思うのです。

ハッキリ言いますが、ダメ人間は、ダメ人間であり、
それは本人に変わる意志と相当な行動力がなければ変わらないものなので、
必要以上に関わることはやってはいけません。

正直、このゾーンから抜け出すのは、それを商売にする人間も、依存する人間も
相当な覚悟と内面改革が求められますが、
9割の人間は、一生涯そのままで、あまり著しい変化は見られません。

三つ子の魂百までとは、よく言ったもので、
基本的な心の弱さとか、依存したい気持ち、考え方というのは
死ぬ思いをするような大変な目に遭わない限り、
いやっ、たとえ、そのような目に遭ったとしても
基本的な部分というのは、そう簡単には変わらないものです。

「変わらない」というよりは、「変わる努力をしない」という表現のほうが正しくて、
だからこそ、いつまで経っても胡散臭くて、怪しくて、
同じような滞りを持っている人同士で惹き合っているのです。

僕はそのような人たちを思いっ切り否定しますし、
一切、関わりを持とうとは思いません。

「私は誰でも受け入れますよ。」「人間、誰でも生きていれば皆平等。」
「あなたの存在は、あなたの存在として認めますよ。」
「あなたは好きなことだけをやっていれば成功する。」
「心の声、子宮の声だけを聴いていれば全て上手くいって幸せになれる。」

こんな胡散臭いことが痛々しいとも思わず普通に言える人間を信じられる、
オメデタイ人っているのでしょうか。

少なくとも僕は、そういうレリゴーブスのような人たちに対して
「あなたたちは、あなたたちの存在として、とりあえず受け入れますよ。」とは
やはり一切思えません。だってただの依存体質、
メンタルがやられている現実逃避型の馬鹿としか思えませんもん。

「変われるチャンス、もっと良い方向に行くチャンスがあるにも関わらず、
自らの心の弱さやこだわり、頑固さで動かないなんて、
なんて馬鹿なんだろう。」と、やっぱり素直にそのように感じますよ。

そして、そのような人たちと同じ土台だとは一切思っていません。

思いっ切り差別しているでしょう(笑)!?

本当の宿命を自分で理解して動いている人と、
何も分からず、自分の本分や素質を知る努力、認める努力もせずに
ただ闇雲に動いているだけの人とでは、
明らかに、その後の人生においての結果が違ってきます。

この世では忌み嫌われている差別とか、
立派なカースト制度と同じくらい、見事なまでに、その差が出てくるのです。

何度でもお伝えしますが、そのような意味では、
僕は思いっきり、人生を甘やかして生きている輩は差別しています。

同じ土台だとも思いませんし、いくら話をしたところで噛み合わないので
勿論、そのような人たちとの交流もおのずとなくなります。

「差別」という言葉を必要以上に嫌って、良い人ぶる輩に多いタイプが
「私は誰に対してでも分け隔てなく、受け止めます。」的な
この世では絶対にあり得ない嘘をつく人たちです。

*「本当に差別や偏見の心があるのは誰!?」

もっと、正直になりゃいいのに・・・と老婆心ながら思うのですが、
おおよそ、そのような人たちの周りには、
同じような人生の滞りの流れを持つ人たちが集まりやすいものです。

波長の法則というのは、とても響きの良い言葉かも知れませんが、
もっと現実的な言葉に置き換えると、
見事なまでの魂のカースト制度であって、人の心の波長は、
そっくりそのまま周囲に波及して同じような程度の人と惹き合うようになります。

要するに悪い言い方をすれば「同じ穴の狢」とも言う。

そして、毎度、同じことをお伝えしていますが、
そのような意味で滞った人生を送る人と、
発展的な人生を送る人と一体何が違うのかと言えば、これを言えば元も子もないかも知れないけれど、
最終的には、その人の生きるセンスそのものの問題だと思います。

センスがなければ滞ったまま、ずっとそのままでしょうし、
センスがあれば、何かしらの形で発展的な人生に導かれていくことでしょう。

だからセンスがない人だと自分で自覚しているのであれば、
あまり上を見過ぎず、誰かと対抗することなく、
身の丈に合った生き方をしたらいいだけの話です。

自分でそのようなセンスがあると感じているのであれば、
大いに自分が信じる道を突き進みながら、
人生を発展的に変えていけばいいだけの話であって、
その両者には明確な差や、生き方の違いが表れるものだと思います。

無いものねだりをするのは止めて、他の誰かになることを止めて、
自分の枠に合った生き方が出来る人こそ、
本当の意味で自分らしい生き方を追求できる人たちなのではないでしょうか。

この世はそのような意味で、とても不公平に理不尽に出来ています。

差別もあるし、人によって能力の差、人生の高低差もあるし、人生の温度差だってあります。

そのような世の中自体を悲観したり、人間離れしたような発想で
「人類皆平等」主義に傾いて怪しい言動をとったりするのではなく、
自分は自分として素直に受け入れ、特別な何者でもないという等身大の誇りさえ持っていれば、
そのような胡散臭いまやかしや、思想に流されることなく、
事実は事実として受け止め、
そこからようやく本当の意味で、自分らしく生きていける
スタートラインに立てるのではないでしょうか。

僕はこの世で胡散臭い言動ばかりを繰り返す人たちの根本には、
そのような意味での現実味が足りない馬鹿か、
自分の心の弱さを見つめられず、自信のなさを受け止められず、
自分以上の何かになりたい願望が強い依存心と狡賢さを孕んだ
オツムが足りない輩が多いような気がします。

その逆で、生きるセンスのある人たちというものは、
誰が何と言おうが、自分の決断や将来の流れについて
多少の不安や心配があったとしても、
とりあえず一歩前進しながら、自分自身が出来ることだけをやっているものです。
聡明さとも表現しますが、僕はこの聡明さを持っている、ごく普通の心ある人たちが
心の底から大好きです。

だから、この世の中の全ての物事というものは、
悩むより、考え過ぎるより、先ずはやってみないことには分かりませんし、
動いてみないことには分かりませんし、会ってみないことには分かりません。

上っ面でいい言葉ばかりを並べ立てるのは詐欺師の鉄板であり、
怪しいスピリチュアル系の教祖様はほぼ間違いなく、このタイプです。

そこに騙される程度の人というのは要するに、その怪しい教祖様たちがよく使いたがる
波長の法則でいう「同じ穴の狢」ということ、笑。

やっぱりこれって恥ずかしいですし、こんな醜態を公に晒すことなんて
普通の感覚の持ち主であれば出来っこありません。

この世はそのような意味で立派な波長の法則というよりは、
底辺では同じ穴の狢のカースト制度のようなものが存在すると感じています。

僕も同じ穴のなんとやらにならないように、醜態を晒すレリゴーブスたちを反面教師にして
目の前にある生活に専念したいと思います。



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Posted by 山野本竜規 at 21:36 │心の在り方 (2,645)▼