山野本竜規の続・ナカトリモチ日記
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この世は遠慮なんて、していられない。~ポルトガル版・サッチーから学ぶ姿勢~

2014年03月06日

この世は遠慮なんて、していられない。~ポルトガル版・サッチーから学ぶ姿勢~こちらのインパクトのあるお顔の女性、
僕がポルトガル滞在中、リスボンのトラムに乗っている時、
たまたま向かいの席(かなり距離が近いのですが。)に座った
地元のご婦人。隣には旦那さんと思われる人が座っていました。

僕は、この人を見た瞬間、
「あっ、ポルトガルのサッチーだ!」と瞬時に思い、
混み合う車内の騒音に任せて、恐る恐る携帯を取り出し
こっそり間近から、ポルトガル版サッチーを激写。
このふてぶてしい表情と、横柄な態度、まさに、
僕のイメージの中にある、日本のサッチーそのものでした(笑)

僕は実物のサッチーを知らないので、
実際、ご本人がどのような人なのかは分かりませんが、
あくまでイメージでは、こんな感じです。

この女性、満員だった車内のトラムの途中の駅から
旦那さんと2人で乗ってきて、最初は僕の目の前の向かいの席には
大学生と思われる若い2人組の男性が座っていたのです。

ところが、この席までスタスタやってきて、
僕は外国人なので会話が出来ないと思ったのでしょう。

目の前に座っていた2人組に、何やら「席を譲って!」と一方的に
お願いという名の脅迫をしている様子。

若者たちも素直に席を譲ったのですが、
そこから、サッチーの傍若無人ぶり発揮で、
「私に席を譲るのは、当然でしょ。」と言わんばかりに
ニコリと笑いもせず、お礼も言わず、ふてぶてしい不機嫌な表情のまま、
重いお尻を、ドスンと勢いよく席に埋めたのでした。

隣に座った痩せ細った老年の旦那さんは、
サッチーが買い物したであろう買い物袋2つと、サッチーの鞄を全て1人で抱えて
申し訳なさそうに、ちょこんと座っています。

旦那さんの健気な姿は、さすがに写真に収めようとは思わず、
そのまま、2人の様子を眺めていましたが、
彼らが降車するまでの約15分ほどの間、ずっと会話はなし、
サッチーはずっとふてぶてしい表情のまま、
急に携帯を取り出しかと思うと、イヤホンで音楽を聞くのではなく、
そのまま周囲に聞こえる状態のかなりの大音量で、
お気に入りのクラシック音楽を聞き始めました。

いくらトラム内が混雑していて、騒々しいとは言え、
さすがに、この大音量の音楽には周囲の人たちがびっくりし、
皆、サッチーと旦那さんのほうを見るのですが、サッチーは一切、動じず。

その多くの視線に気づいた旦那さんは、
「スミマセンねぇ。」と申し訳なさそうに周囲に目で合図して
多分、「音小さくしたら?」と声をかけたのでしょう。

その旦那さんの問いかけにも、サッチーは
「だから何!?」といった感じで、一切答えず
ずっとふてぶてしい表情のまま、横柄な態度のままで
トラムを降りる時も、混んでいた車内の人に
一切声掛けをせずに、ドスドス当たりながら出口に辿り着き、降りて行きました。

2人に席を譲った大学生2人は、その席の傍にまだ立っていて
サッチーたちが降りるついでにお礼の一言か、アイコンタクトでも取るのが
まあ、ある程度のマナーだろうと思うのですが、
ここでも、サッチーは知らん顔で、
大学生たちの表情を見ると、やはり、「何だったの?あの人!?」というように
お互い顔を見合わせて、また空いた席に座っていました。

基本、ポルトガルの国民性は、日本とどことなく似ていて、
あそこまで横柄でふてぶてしい態度を取るような人は、
僕が滞在中は、あのサッチー以外、いませんでした。

だから、とても印象に残っていて、
僕はこのサッチーと居合わせた約15分の間、
どんな気持ちだったのかというと、
勿論、個人的に、こういう人は大嫌いなので、
やっぱり嫌で気持ちは良くなかったのですが、
その反面、この傍若無人のサッチーが少し羨ましくも感じている自分がいたのです。

「あのように、なりたいのか?」と問われれば、
勿論、答えは「いいえ。」ですが、
あのサッチーの一部分は、受け継いでも良いかな・・・と思えたほど。

周囲の空気を全く読まない、傍若無人、ニコリともしない、お礼も言わない、
自分がやりたいようにやる、周りに迷惑をかけても知らんぷり、
おまけに近くにいる人たちにも無関心で自分勝手。

一般社会では、これらを全てマナー違反と判断します。
僕も、同じ意見であり、同じ考えです。
そして、僕は、こういうマナーの悪い人、人としてダメな人は
何よりも毛嫌いする傾向にあります。

だって、ダメなものはダメですし、受け付けないものは受け付けませんし、
嫌いなものは、嫌いなのですから・・・。

こればかりは、僕の性格であり、生き方であり、自分の方向性なので
変えようと思っても、変えられませんし、
基本のスタンスとしては、そういう人たちとは、
これからも深いお付き合いは絶対にあり得ないことでしょう。

まあ、多くの人は同じことを感じることかと思いますが、
僕が何故、ここまであういう人たちが嫌いなのかと言うと、
僕はその逆の行動をとるために、無意識のうちですが
いつも労力をすり減らし、周囲にある程度の気を配り、その場の空気を察する積み重ねをし
なるべく世間様に迷惑をかけないように、生きていくことが
社会人、立派なマナーのある大人としての常識であり、
それが色々な成長に繋がっていく・・・と、当然のように感じて育ってきたからです。

「えっ!?そんなの当たり前のことでしょう?」と思える方は、
やはり常識人で、しっかりとしたマナーを兼ね備えた立派な大人の方だと思います。

僕はアナウンサーという職業を通して
常に「周囲の空気を察する」「相手が何を求めているのか、何を訴えているのかを察する」という
基本的となる技術、その仕事で食べていくための術を
多くの先輩たちから、そして周囲のプロフェッショナルの人たちから
自然とそれらを求められて仕事をしてきた経緯があります。

「アナウンサーは喋る仕事」と思われがちですが、
喋る技術云々は、ある程度の素質のある人であれば、
時間をかけて訓練をすれば、いくらでも上達します。

ですが、その仕事に求められる一番の要素は、
「周囲の空気を読む」ことであり、
「目の前で向き合う人が、そして周囲の人たちが何を求めているのか」を
事前に察して質問をしたり、全体の時間管理をしたり、話を進行したり・・・という
言葉だけでは、マニュアルだけでは教えられない、教えてくれない
グレーゾーンのようなスキルを磨いていかないことには、
その世界ではあまり通用しなかったような気がします。

これは、生まれながらにして自然とそれらが出来る人もいれば、
そうではない人もいて、
特に僕の場合は不器用なので、これらを理解してそのスキルを磨いていくのには
かなり苦労した記憶がありますし、今でも不得意分野の1つです。
でも、無理にでもそうしないと、それがその仕事を続けられるか
どうかの死活問題に直結しましたから、やはり、やり続けるしか方法がありませんでした。

これが、世間一般の常識で言う、
「社会人になっていく。」「仕事のスキルを磨いていく。」という
人間の成長には、とても大切なプロセスだと感じています。

お蔭様で、その無理矢理にでも身に付けたスキルの基本は、
今のナカトリモチという仕事にしっかり受け継がれていて
カウンセリングや土地・家屋のお祓い、そして勉強会の講演にお越しになった
目の前で向き合う方が、何を求め、何を訴え、何のために僕とお話をして下さっているのか・・・という
無意識のうちの姿勢は、今でも根本は変わりありませんし、とても役立っています。

僕のような仕事でなくても、多くの人たちが、同じように
空気を読み、相手が求めることを事前に察し、なるべく世間様に迷惑をかけないように
常識的に生きようと無意識のうちに努力しています。

僕が、その対極にある人たちを見て
「嫌だな。」と感じるのは、その努力を怠っているからに他なりませんし、
それで仕事に恵まれないのも、人に嫌われるのも、全てその人の責任だと感じています。

ただ、そう感じる一方で、
「もし、自分が世間の常識や枠を超えて、あのように傍若無人のように振る舞ったら
一体、どうなるんだろう。」という不思議な好奇心が湧いてくるのです。

このブログでも、普段の生き方でも、僕の人生、発言は明快ですから
ある意味、「それ以上、傍若無人に振る舞って言いたい放題でどうなるの?」と
思われる方も中にはいらっしゃるかも知れませんが(笑)、
自分の責任の元、自由に生きたいように生きて、自由に発言して、
自分主軸で生きている僕でさえ、
「もっと自分らしく、気を遣わず生きていければいいな。」と常に感じています。

サッチーを見て、「なんだ、こいつ!?めっちゃ、態度ワルっ!」と
嫌悪感を示しながらも、その嫌悪感の奥底には、
「自分だって本当は、あんたのように周囲を全く気にせずに生きたかったはず。
でも、仕事のために社会人になるために無理矢理にでも、
それらを捨てて、身に付けなければいけなかった。ニコリとも笑わず、お礼も言わず、
自分勝手に生きることが出来れば、どれだけ自由なことか。」と
それらが出来なかった自分に対する残念な想いがあることに気づきました。

実は、オーストラリアでの集団生活では、
毎日が、ポルトガル版サッチーのような人だらけに囲まれた生活だったので
日本基準というか、社会人の基準、常識のみで生きてきた僕にとっては
とても大変で嫌だった反面、
「中には、ここまで自分勝手で傍若無人で、それでも生きている、
いやっ、それでも普通に生きていける人たちもいるんだな。」と
素直に驚くことができた良い経験になったのも事実です。

まさに、これまで生きてきた常識や枠の中を、
一気に飛び越えてしまうような、それらを崩すような衝撃的な経験です。

何度でもお伝えするように、
僕は、こういう人たちに迎合することもありませんし、
こういう人たちが、やっぱり、今でも大嫌いです。

とても大嫌いなのですが、そういう人たちから感じる事、
反面教師として教えられることの中に、
僕の中にある普段は気づかない本質が含まれていることもあり、
それらを見つめる意味では、とても良い学びとなりました。

大嫌いは大嫌いで変わりありませんし、
それ以上、交流を持とうとも微塵も感じませんが、
そこから受け取るもの、感じるものだけは、有難く戴く。

これさえ分かれば、嫌な人たちも全てが「悪」の要素ではありませんよね、
勿論、やっぱり大嫌いですが。

帰国後、不思議なことに、僕はある習慣をパタリと止めている自分に気づきました。

それまで、何人かで食事をする際、
お酒や飲み物があると、さっと相手のグラスに飲み物を注ぐのは
社会人であれば皆やることなので、僕も不本意ながら自然と身体が
条件反射のように、そのように動いていたはずなのですが、
それを一切やらなくなりました。

「スミマセン、僕気が利かないので。飲みたい時は、どうぞご自由に。」と
前置きを入れて余計なお酌をするのをやめると、
快く受け入れて下さる方ばかりで、
あとは皆、それぞれ自由に飲み物を注いで飲んでいます。

その場にいる人たちとってはとても失礼な発言だったかも知れませんが、
その一言で、僕も周囲も一気にラクになります。

欧米では、お酌の習慣が全くなく、
それぞれが飲みたい時に自由に自分の分を注いで飲んでいたので、
「あぁ、これは、なんて便利で気楽なシステムなんだ!」と都合良く
そのシステムを拝借しちゃったのです。

これは、ほんの一例ですが、やはりこうやって
これまで常識として身に付けてきたものを、一旦、はぎ取って
自分なりに崩していくという作業を行っていくと
自分が良い意味でラクなほう、ラクなほうへと向かっていくのが分かります。

随分、昔の話になりますが、
確か小学校1年生の頃、夕方家でテレビを観ていると
近所の友達が遊びに来て、「遊ぼう!」と誘ってきたのを
玄関先で、「今、テレビ観てるから、嫌だ!」と断ったのを覚えています。

その時、たまたま怖い怖い父親が傍でそれらのやり取りを聞いていて
友達の目の前で、ボコボコに殴られた記憶があり、
「友達がわざわざ来てくれているのに、断るなんて、何事だ!」と
凄い剣幕で怒っていたのを見て、
「あぁ、自分が好きなように振る舞うことは、ダメなことなんだな。」と
その時、はっきりと植え付けられたのを、ふと思い出しました。

当時の親の教育としては、手荒だったとしても、
まぁ、まっとうなことを言っていますし、それで、少しでも聞き分けのいい
「良い子」になってくれれば、親としての本分を
立派に果たすことになったのでしょうけれど、
元来、自由奔放であるべき子供の発想は、
どんどん「常識」に固められていってしまいます。

子供には、強制的にでも、そうやってルールやマナーを
教え込まなければいけない時期が必要ですが
ある程度成長して、大人と呼ばれる年齢になってからは、
今度は、これまで身に付けてきた常識や生き方を
もう一度見つめ直し、崩していく作業をしていくことも大切だと感じています。

多くの人は、その常識のまま、枠のまま、一生を終えることになります。

常識であり、子供の頃から当たり前にある枠なので、
それらが「普通」であり、何の違和感も覚えず、普通に生活することが出来て
とても安全なのですが、その枠の中だけで生きていると、
どうしても、無理が生じてきて、それらが色々な悩み、葛藤、人間関係の辛さに
繋がっているケースがほとんどだと、
これまでのカウンセリングを通して、また、自らの経験を通して確信することが出来ました。

僕はよく、カウンセリングの中で「もっとKYになりましょう。」とお伝えすることがあります。

KY、空気が読めない。

今の日本人、特に現代人は、誰に教育されるまでもなく、
自然と、この独特の環境の中から、KYにならない努力を強いられ
空気が読めることこそが、良いことだ・・・と何の疑いもなく教えられてきました。
そうでないと、仕事も務まらないし、社会からはみ出てしまいますし、
「あいつは使えない奴だ!」と烙印を押されてしまいますから。

KYになるには、特にこの日本では、とても勇気が必要なことですが、
既に空気を自然と読む力が備わっている多くの人たちは
それ以上、そのスキルを鍛え続ける必要はないと思います。

時には周囲が全て賛成意見の中、「いいえ!」と言ってみる。
「好きですか?嫌いですか?」と問われれば、「嫌いです!」とハッキリ言ってみる。

好きと表現することはあっても、「嫌い!」というと、
どことなく自分のイメージまで悪くなってしまうような錯覚に陥りませんか?

そして僕のように好き嫌いがハッキリしている人間は、
周囲の反応がとても明確で、それを「良し。」と受け止めて下さる方か、
「あんなはっきり意思表示するなんて最悪!」と拒否反応を示す方かの
どちらか真っ二つに分かれてしまいます。

これは僕にとっては好都合です。
その分、人付き合いも明確になりますし、少しでもKYでいられる
自然体の自分でいられますから(笑)

僕が昔から「はい。」か「いいえ。」か、「好き。」か「嫌い。」か、
「良い。」か「悪い。」かを明確にしているのは、
他の誰でもない自分自身の本質と近づくため、
要するに、本当の自分を受け止め、受け入れ、仲良くなるためです。

自分の本質と仲良くなることが出来れば、
心ある他の人たちとも、ご縁がある人たちとは仲良くなれます。

友人にしても、職場の人にしても、家族にしても、
必要以上に無理に無理して気を遣って遣いまくる人間関係というのは
ある種、健全ではないと思います。

時にはそのような緊張感が必要な間柄はあっても良いと思いますが、
いつもそんな状態で生きていれば、
それはどこかで無理が祟って、いつかは必ず関係がこじれることでしょう。

その逆で、自分主体で生きるということは、
時にはこれまで身に付けてきた自分の常識が
本当に自分の心に適った常識なのか、どうかを疑ってみる、
または勇気を出して崩してみることも必要です。

先ほどもお伝えしました。

多くの人は、その常識のまま、枠の中で一生を終える・・・と。

でも、今、そうではない人たち、もっともっと自分主体で
心豊かに生きていきたい・・・と願う人たちが、
そのギャップに苦しみ、抜け出そうとしているのが、
今の世の中の流れの1つでもあります。

実は今、それらを見つめながら、
それぞれの本質に気づいていくようなお手伝いができる、
エネルギーや人生の根本を築くための
ワークショップの計画を練っているところです。

これを沖縄やその他のエリアで実施出来ればいいな・・・と思いながら、
今、それらを構築している段階ですので、
今年中のなるべく早いうちに実現できればと思っています。

これも、旅先で、あのふてぶてしい
ポルトガル版サッチーと偶然に出会ったお蔭です(笑)

いつも感じるのは、この世は、誰にも遠慮している
時間も暇も猶予もないということ。

あくまで自分が主軸で生きている人生なのですから
立派な常識、マナーを身に付けつつ、
そこから更に自由な発想で生きてける聡明な人たちが
これからもっともっと増えていくことかと感じていますし
そのような人たちと、色々な交流を深めて生きていければいいな・・・と素直に思えました。


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*3月29日(土)・沖縄、ナカトリモチ勉強会参加者を募集しています。
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Posted by 山野本竜規 at 08:57 │心の在り方 (2,645)▼