山野本竜規の続・ナカトリモチ日記
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人類滅亡を煽る選民意識集団が苦手な理由。

2023年08月12日

人類滅亡を煽る選民意識集団が苦手な理由。

昨日のブログで「沖縄は他県に比べて、もやしの値段が高い」
野菜の値段が全体的に高い事情をお伝えしたのですが、
そこに共感する方々も多くいらっしゃって驚いています。

他県では節約の味方である代表格のもやしが沖縄では高くて
節約野菜にカテゴライズされないのは、沖縄県内の需要と供給のバランスの関係や、
県外からの輸送費の上乗せなど色々な事情が絡み合ってのことなので
沖縄で生活している以上、「もやしを含む、色々な野菜が高い」というのは
ある意味、受け入れなければいけない現実でもあります。

そのような事情も相まって、僕も野菜を買う時は
なるべく値段が高いスーパーなどではなく郊外のファーマーズマーケットなどに出かけて、
まとめ買いをするようになりました。このほうが安く済みますから。
ところが・・・。

今日、郊外にあるファーマーズマーケットに立ち寄ると、
いつもなら色々な沖縄県産野菜も豊富な店内も、ほとんどスッカラカンで、
唯一、店の隅のほうにあったのは、えらくやせ細ったニラの束のみという惨状でした。

台風6号通過から6日が経っているのですが、
本土のお盆や本土の台風の影響など物流の停滞もさることながら、
沖縄県内で生産されているはずの野菜、果物類も収穫できないような状況で
改めてその被害の大きさを目の当たりにした感じがします。

ここのファーマーズマーケット、観光客用ではなく、
沖縄県民が少しでも安い野菜や果物を買い求めるために訪れるお店なので
その店でさえ、この状態で、まだまだ尾を引きそうな感じです。

普段ならお世話になっている方に贈るための、見た目も良い贈答用のマンゴーなども
他のお店より安く手に入るため重宝していたのですが、
台風後は、贈答用のマンゴーやその他の果物は皆無。

残りは台風で傷ついてしまったような、自宅消費用の汚れたものが僅かばかりで
こんなに寂しい馴染みのファーマーズマーケットの光景を見たのも初めてでした。

たった1つの強烈な台風通過によって、日常生活に影響が出続けていることって
沖縄でも本当にレアケースだからこそ、
日常の有難さに意識が向くものですし、最低限の備えは常日頃から必要なのだなと
防災意識が高まるキッカケになっていると思うのです。

閑話休題。

実は、一部のスピリチュアル界隈で、そう遠くないうちに
人類未曾有の自然災害や人災が起こり、食糧難に陥るということを
殊更主張して備蓄や備えを呼び掛けている人種、
教祖様を主体とした集団、自称スピリチュアリストたちが存在しています。

彼らの主張によると、世界は暗闇に包まれ、太陽が届かなくなる世界が来た時に
食糧難の危機を迎えるからこそ、今のうちから野菜などを自ら栽培し、
備蓄できるものは、より多く備蓄しておくことで、それらの災難から逃れられる・・・と。

でも、日本はもとより世界各国、自然災害やその他の人災(戦争を含む)って
いつ、どこで突然起こるのか分からないものですし、
もし、そこに残念ながら巻き込まれる立場になってしまった時、
無理してでも助かろうとするかどうか、そこに関しては一部の疑問が残るのです。

僕だったら、もしそんな情報が事前に伝わって、それが事実だったとしても、
大好きな場所で、大好きな人たちが近くにいるところで
そのまま命を終える道を選びますけどね。

勿論、やることをやって、それなりの備えをして、
それでも不可抗力に巻き込まれてしまった場合という条件付きですが。

自ら命を絶つことは今のところないにしても、
そこまで意固地になって自然災害や人災に巻き込まれ、
何が何でも自分だけ生き残ろうだなんて発想が僕の中にはありません。

備えは確かに大切だし、常日頃から、いつ何時、どんなことが起こるかわからないからこそ、
今という時間を自分なりに大切に積み重ねていくことは
真っ当な人として当然の感覚だと思うのです。

しかし、だからと言って、今のうちから必要以上の備蓄をし過ぎて、自分だけ助かろう、
自分だけ生き残ろうとする、その選民意識というか、なんか嫌な負のあさましさというか、
そういうものを感じて、素直に「はい、分かりました。」と頷けないのです。
あくまで個人的な意見ですが・・・。

「そこまで他人を出し抜いて、自分だけが真実を知っていて、
まるでアリとキリギリスの真面目な働きアリにでもなったかのような上から目線で、
備蓄を心がけない人たちを「残念な人たち」と差別しながら、
無意識のうちに「私たちは自分で情報を掴んだ賢い人」という
無意識の選民意識を持つような嫌味ったらしさが、とにかく気に食わない、笑。

世の中に溢れる様々な陰謀論にウェーブをするように共鳴する人たちは皆、
心のどこかで、いやっ、心というよりは無意識のうちに
「自分は他の人たちが知らない真実を知っている。情報を自ら取りに行っている。
だから知らない人たちに教えてあげなきゃ。」という
お節介で面倒くさい言動が、そこかしこから滲み出ているので基本的に
こういう類の人たちは絶対にお友達になれません。
・・・というよりマジで近寄ってこないで欲しい、笑。

何が一番嫌なのかと言うと、本人たちは良かれと思って
少しでも人類の役に立とうと思って大真面目に、
その「もうすぐ世界はヤバイことになる教」を布教していることです。

選民意識の欠片もなければ、人を陥れるつもりも一切ないけれど、
本人たちが気づかない深い底の底には、
「自分たちは真実を知って事前に備蓄や準備をしている勝ち組の人間」だから
「まだ気づいていない愚かな人たちに、少しでも真実を教えてあげなきゃ。」という
正真正銘の選民意識とマウンティングが潜んでいることが多いからこそ、
素直に「はい、そうなんですか。」と受け入れられないんですよ。

あとね、スピリチュアル系の人たちって、
人の心だの、あの世の魂だのを一生懸命学んでいるはずなのに、
どうして、そこまで自分の「生」に拘り過ぎるのでしょうか・・・。

本当にあくまで超個人的な下世話な見解なのですが、
人間、死ぬ時は死ぬし、生き延びるときは生き延びる。
ただ、それだけのことです。

人生、何の後悔もなくこの世での生活を終えるというのは難しいことかと思いますが、
少しでも悔いが残らないように、1日、1日を自分なりに向き合って生きていくことは可能です。

*「過去の後悔も、今の時間も。」2023年7月30日

人類が生き残ることだけに意義があるのなら、そうしたい人だけが
どんな手段を使ってでも生き残ればいいけれど、
人の寿命には限りがもともとあるし、それが人類未曾有の自然災害や人災で
その寿命が早まってしまったのであれば、それもまた1つの人生の終え方、在り方です。

戦争や自然災害で被害を受ける人たちそのものを肯定しているのではなく、
もし仮にそのような渦中に巻き込まれたとしたら、その環境の中で
生きるか、死ぬかは、やることやって、あとは神のみぞ知る領域だからこそ、
そこに必要以上の「生」に拘る理由が分からないのです。

「人類はそろそろ終わる。世界は真っ暗闇に包まれる。
食料もなくなる。だから今のうちに準備をしておきましょう。生き残るために。」

・・・というか、なんか、おかしくねぇか?

やっぱり僕は
「真実を事前に知って準備をしてきた者のみが困らない、生き残る」的な発想自体が
本当に嫌というか、バカバカしいというか、嫌な連中の集まりだな・・・としか思いません。

あと意地悪なことを付け加えるなら、
「そんなに食糧難が心配で他人のために忠告しているなら、
あんたらが代わりに真実に気付いていないと
マウントを取る他の人たちの分の備蓄もしろよ!」と言いたい。

口だけ出して、人助けをしたつもりでいるのに、
現実では他人までは助けない。

こんな上っ面だけの連中に素直に共感できる人って
よほどおめでたい頭の中がお花畑の人なのでしょう。

人類が終わるときは終わるし、人類未曾有の危機的な自然災害や人災が起こるとしたら
それはそれで理不尽だけれども、その環境下で生きるしかない。
生きられなければ死ぬしかない。

ただそれだけなのに、何をそこまで強調して、必要以上に人を恐怖に陥れて
煽動しているのか、僕にはさっぱりその理由が分かりません。

実はちょうど昨夜のNHKBS1の再放送で
「マンゴーの樹の下で。」という戦争ドラマを観ていたところです。

というより、初回放送の2019年から何度か再放送される度、
僕はいつも観ているドラマなのですが、
第二次世界大戦下、フィリピンに赴任して戦争に巻き込まれ、
その後、帰国した女性の壮絶な体験談を元にした物語です。

まぁ、ドラマの詳細は割愛するとして、
フィリピリンでの戦禍を逃れ命からがら日本に帰国する際、
同僚のフィリピン人と日本人のハーフの女性を一緒に日本に連れて帰ったことを
ずっと後悔している主人公が、平和な世の中になって
年を取ったあと、旧知の間柄の友人に伝えられた言葉が、
とても印象的だったので、ここでご紹介しておきます。

「人が生きる場所は 国でもない 土地でもない・・・人なんだよ。」

最終的には人は、どんな場所、環境で暮らすのかというより、
どんな人たちと関わりをもって、過ごしてきたかによって
その幸福度の差が出てくるのではないかな・・・と。

人が生きる場所が、人であるならば、
僕は、なるべく心根が明るく今を懸命に生きている人たちと共に
1日1日の生活を積み重ねていきたいと強く感じます。
たとえそれで、自分の意志以外で、突然、人生の終わりを迎えたとしても・・・。

少なくとも先述したような無意識の選民意識を持つような連中とは
プライベートで関わろうとは微塵も思いません。

人の生き方って、言葉にも表情にも、はたまた生き方そのものにも
素直に表れるものだな・・・と肝に銘じて、日々を過ごしていきたいと思います。


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Posted by 山野本竜規 at 19:11 │心の在り方 (2,645)▼