個人的な願い事は、あくまでヘビーなものではなく、
軽やか、爽やかで、自分やその他の誰かのことを含めた発展的な願い事のほうが
よりご祭神には届きやすいものです。
神社参拝でのマナーの1つをお伝えする際、僕はよく
「願い事にガッツキ過ぎるのは効果がありませんよ。」とご紹介することが多いのですが、
これは人間同士の付き合いを想像すると簡単に理解出来ることで、
あまりにも一方的に「助けて下さい!」「辛いんです!」「苦しいんです!」と
悲壮感を漂わせて誰かの襟や袖を掴んで離さないような人がいたら、引いてしまいませんでしょうか?
僕だったら完全に「あっ、この人、ちょっと危険かも。」と思って、
思いっ切り引いてしまいます(汗)。
それよりも、大変な事実は受け止めつつ、
「今は心がとても大変で、自分ではどうすることも出来ない事象が沢山起こっています。
ほんの少しでもいいので、何かしらの助言や気づきになることを教えてもらえませんでしょうか。
きっとそこから何かしらのヒントを得て、
自分なりに課題を見つけて乗り越えていく努力が出来ると思いますので。」と
あくまで淡々と、丁寧に節度と距離感を保ちながら、そのヘルプを出すことで、
他の人たちは、「あぁ、感情だけに支配されず、ここまで自制されながら頑張っておられる人だったら、
何かしらの力になってあげたいな。」と自然と思うものでもあります。
神社参拝の時の基本もこれと同じで、
ただ「助けて下さい!」「人生がよくなりますように!」と一方的な願い事だけを
短い言葉で訴えかけたとしても、それは単なる身勝手としか受け止められません。
その逆で、なるべく感情的にならず、淡々と丁寧に、自分の言葉で
今の現状を整理しながら、今出来ることと、出来ないことが何なのか。
そして出来ないことは、出来るようになる努力をしっかりする・・・という誓いを立てた上で
そのヒントやご加護を請うのが、お願いごとをする際の基本的な心の姿勢です。
これは一種の誓約のようなもので、
「これこれこういうことをしっかり頑張りますから、これこれこういうことを実現するために
お知恵やお力をお貸しくださいませ。」という交換条件、誓いがなければ成立しません。
冒頭の願い事で言えば、「忘れたいことを忘れて全部を終えられるように
日々の生活で改善出来るところは改善し努力研鑽をいたしますので、
どうぞ、それに見合ったご協力をお願い致します。」と結ぶのが理想的でしょう。
神社神職は、そのご祭神と人との間に立って、取り次ぎをする役目でもあり、
「これこれこういう人が、今、このような悩みを抱えており、
それに向かって最大限の努力をしますから、どうぞこの人をお守り、お導き下さいませ。」と
長い長い祝詞を通じて、ご祭神にお届けする仕事でもあります。
取り次ぎ役だったとしても、1人の情を持った人間でもあるため、
絵馬などに認められている願い事の内容、文章が粗暴であれば、
その分、「???」と感じることも事実で、
そのような背景がある中で冒頭の絵馬の願い事を見た時、
僕はもう1つの言葉が気になって仕方ありませんでした。
「忘れたいことを忘れて全て全部終われますように。」
僕自身、最近は若者言葉の1つである「ら抜き言葉」が気になるオジサン化していますが、
先ず、僕は「終われますように。」という書き方が気になって、
願い事云々は別にして前の文章の内容を鑑みると、
「終えられますように。」や「終えることが出来ますように。」に変換したほうが
書き言葉としてはより流暢な響き(というより、これが本来の表現です)になるものではないかな・・・と
1人、誰が書いたのか分からない絵馬の前でブツブツ言っていた・・・という
怪しくシュールな光景が広がっていたと思います。
きっと口語、一般的な会話の中では普通にら抜き言葉が浸透しているため、
「終われますように。」と表現しても、言葉のプロや僕たち40代前後から年上の人でなければ、
そこまで気になる響きではないかも知れませんが、
これが一瞬で通過する会話ではなくて、ずっと残ることになる書き言葉となると、
やはり、人によっては「ちょっと教養のない幼い表現だな。」と受け止められてしまうかも知れません。
別に友達同士とか知らない人に見聞きされたところで、それらは全く問題ないと思いますが、
たとえば外出先で目上の人と会話をする時とか、仕事で目上の人と接する際、
もっと言えば、大好きな人と結婚を決めて、どちらかの両親に会わなければいけなくなった時、
このようなら抜き言葉が当たり前のように何度もその人の口から出てきてしまったら、
きっとそれだけでマイナスの印象になることでしょうし、
相手方にとっては、あまり良い印象には映らないものだと思います。
丁寧語などは特別意識して生活する必要もありませんが、
知っておくと損をしないのは事実ですし、それは大人になればなるほど役に立つというか、
「ある一定期間、言葉についてしっかり勉強しておいて良かったな。」と
思えることが多いような気がします。
たとえば日常会話でよく「???」と感じる表現の中で、
よく若い人たちから「ご苦労様でした。」と言われることも増えてきたのですが、
「ご苦労様でした。」は、年上の人が目下の人の労をねぎらう言葉であって、
決して年上の人に使ってはいけない失礼な言葉にあたることを知らない人も多いものです。
これが70代、80代のまだ言葉を大切にしていた時代の人たちに対して
「ご苦労様でした。」とでも声かけをしようものなら、「年上にご苦労とは何事かっ!」と
凄い剣幕で怒鳴られてしまってもおかしくないくらいのNGワードであることを
理解している若い人たちは、そこまで多くないような気がします。
だから僕自身、「ご苦労様」という響き自体が偉そうに感じるために、
自らその言葉を発することは、相手が年下であろうが絶対にありません。
勿論、そんな偉そうなことを書いている僕自身、最初から言葉に対して敏感だったという訳ではなく、
僕の以前の職業がアナウンサー、そして言葉遣いや礼儀を大切にする神社神職だったという
2つの要素が重なり合って今の立ち位置があり、
これからも言葉に関しては、日々意識しながら自分なりの表現を深めていかなければいけない
課題が目の前に置かれている中で毎日の生活と向き合っています。
また、僕がまだペーペーだった新人アナウンサー時代、
外の天気を伝えるテレビ中継の仕事があったのですが、
その時、「先ほどから小雪が降っています。」と表現したことがあり、
その時は何事もなく終わりましたが、その中継を録画したものを
各局のアナウンサーが集まって評価し合う研修会の時に持参すると、
こっぴどく別の局の大先輩からお叱りを受けたことがありました。
「表現がとても下品です。言葉に対する敬意が感じられません!」と。
僕は「小雪が降っている」という表現のどこが悪いのか、
その時はさっぱり理解出来なかったのですが、
その大先輩に、小雪は雨と同じように降っていたのかどうかを問われて、
「そういえば、激しく一直線に落下してくるのではなく、ふわふわ舞いながら・・・。」と
答えたところで、
「だったら、「小雪が降る」のではなく、「小雪が舞う」が適切でしょう。」と言われ、
そこで初めて、「あぁ、言葉を取り扱う仕事というものは、ここまで繊細で敏感にならなければ
務まらないものなのか。」と良い意味でショックを受けた思い出があります。
僕は日々、このブログで「馬鹿」だの「ブス」だの、
普通に粗暴で下品と思われる言葉を連呼していますが、
ただ何の経験もないまま粗暴な言葉を使っているのではなく、
普通の人以上に言葉に対して敏感な職業、生活を長年送ってきた上で、
綺麗な言葉もある程度使えた上で自らの意志で発している下品な言葉でもあります。
ただ何も知らずに、何も経験せずに使う下品な言葉と、
しっかりと色々な経験、自身の覚悟から裏打ちされた上で使う下品な言葉とでは、
その伝わり方は全く違うものだと受け止めています。
その言葉を発する真意には自分なりの信念があり、自己責任で発しているものなので、
最終的に言葉というものは、それを取り扱う人の動機次第だと常々、感じています。
ここ最近は誰でも気軽にブログ更新、SNSで情報発信が出来る時代で、
僕が大嫌いな子宮教界隈のブスたちも、薄っぺらい中途半端な思想を
あたかも「イケている」と勘違いしているが如く、荒唐無稽で言葉に対する感受性も
何もないまま下品な言葉や文章を垂れ流している惨状が目に余るほどです。
子宮教界隈以外でも中途半端なスピリチュアリスト、心理カウンセラー、
コンサル業のメンターなど、言葉の造詣が深くないにも関わらず、
それっぽい言葉を薄っぺらい知識で語る連中も多くて本当にうんざりするのです。
*「中途半端な言霊ごっこ、良い人ぶる人生は不細工&不幸です。」
*「歯の浮いた言葉、生き方はつまらない。」
*「人まね、マンネリはいかん。~本当に良い言葉です~」
このように言葉や文章というものは、その本人が意識している以上に、
読む相手にとっては、それがホンモノの経験に裏打ちされた真実の言葉なのか、
それとも誰かの言葉や思想の受け売りなのか、物真似なのか、
薄っぺらい表現で成り立っているものなのかが、自然と滲み出てしまうものでもあります。
以前のブログでもご紹介したことがありますが、
僕は常日頃から過激な発言が多いため(笑)、どういう訳か
その発言や文調、内容などを真似されたり、
意味のない短い文章のブログを毎日更新し続けて一方的にライバル視される・・・ということが
度々あります。
特にここ数年は、数年前に縁を断ち切った治療家を名乗る鍼灸師の男が
小学生レベルの浅はかな文章で、変に対抗意識を燃やして浅はかな短く拙い文章を
更新するということが数年間続いて、
「いくら対抗したところで基礎が違うので相手にならないんだけれど。」と感じることがよくありました。
それと同時に「何故、毎日、長い文章のブログを更新できるのですか?」という
質問もよくお受けするのですが、
これには明確な2つの理由が存在します。
1つ目は、他人のためにというより自分の内面整理のための備忘録だということ。
そして2つ目は、何かしらの気持ちを言葉に変えて、文章にする・・・という作業を
20年以上続けており、その蓄積があるからだということ。
特に後者は、経験を積み重ねないことには一朝一夕で出来ることではなく、
そこには地味な毎日毎日の誰にも気づかれない作業の積み重ねがあり、
それがあるからこその、毎日のブログでもあります。
皆さん、ご存知の通り、いくら文章を書くことが得意な人たちだったとしても、
それを何事もなかったかのように毎日、かなりの量を、それなりの内容に仕上げて
綴っていくことがどれだけの労力なのか、
実際に実践されてみればお分かりになることかと思います。
しかも僕は文章を書くことが仕事ではなくて、今の仕事はナカトリモチ。
つまり、皆さんと同じように日々、仕事をして自宅にいる時や外出先の
ほんの少しの間の時間を活用してブログを更新しています。
沖縄の自宅にいようが、県外出張していようが、海外に滞在していようが、
時差があろうが、怪我をしていようが、自分の身体が悲鳴を上げない限り、
何事もなかったかのように当たり前に文章を書き続けていますが、
これを毎日やるとなると、一体、どのくらいの人たちが続けられることでしょう。
殊、ブログや文章を書き続けるという点において、
言葉をこれまで生業にしてきたプロの観点からお伝えするならば、
あまり意味のない言葉の羅列や、ただの感情の吐き出し、
自分自身を鼓舞するための陳腐な根性論や精神論などを短い文章で綴り続けるような
陳腐な文章であれば、その幼さや教養のなさ、言葉に対する意識の低さが
おのずと露呈するだけですので、誰の目にも触れない日記帳に書くくらいで十分だと思うのです。
それなのに、その恥ずかしさを露呈しながらでも、
ヘンな拘りやプライドから毎日、他人のコピーのような文章、聖書の書き写しのような中身のない文章、
意味のない短い文章などをブログにアップして更新しているのは、
やはりヘンというか、おかしいというか、僕にとっては
「あんた、他に目立ちたい不純な動機があるんじゃないの?」とツッコミを入れずにはいられなくなるほど
不自然に映ってしまうのです。
また本当に言葉に対しての造詣が深い人というのは、
むやみやたらにコムズカシイ言葉、専門用語などを多用することは絶対にありません。
僕の見解からすると、馬鹿な人や自分に自信がない人ほど、
専門用語を多用して自分を盛って賢く見せたり、それっぽい人物を演じようとしたりする
残念な人たちが多いため、こちらもやはり言葉の深みや、
それらを受け取る相手に対する配慮が足りない人たちだと思います。
ちなみに僕は日記や何かしらの文章を書き続けている20年のうち、
その最初の10年間は誰の目にも触れない自分だけの日記帳に色々なことを綴る日々で、
逆に言えば、その位の下積みというか、言葉や文章を構築する基礎があるからこそ、
変幻自在に自分なりの言葉、表現に変えて、
色々な情報発信が出来ている部分もあります。
何事も努力なしには、下積みなしにはある程度の結果が出ないのが普通なのですが、
殊、ブログという側面においては、
猫も杓子も言葉の感性や、それらを取り扱うことの意義すら理解していない人たちまでも
普通に公衆の面前に素っ裸を晒すことが出来る媒体でもあるため、
本当にその言葉のチョイスとか文のセンスなどもピンからキリというか、
「あぁ、この人は言葉をしっかり勉強してきた人だな。」とか、
その逆で、「あぁ、これはただの他人の受け売り、自分で考えた言葉ではない浅い文章だな。」など
言葉を深く理解している人が読めば、それらは一目瞭然なのです。
また、いくら良い言葉、良い人ぶった気持ち悪いくらいの素敵な言葉を羅列していたとしても、
やはりそんな気持ち悪い人間がこの世にいたら、それは偽者というか、
真実ではないため、「こいつ、無理して自分を盛ってるんだろうな。いつか化けの皮が剥がれるぞ。」と
その痛々しい姿に同情すら覚えてしまいます(笑)。
何事も自分だけには嘘をつかない生き方というものは、
それが言葉にしても、文章にしても、普段の生き方にしても、全てその人の雰囲気として
出てくるものなので、やはり嘘がつけない部分でもあるのです。
またブログや本の文章と、実際に目の前にした本人のギャップというか、
これは良い意味も、悪い意味も含まれていますが、
おおよその場合、特に良い言葉、良い思想、良い人像を演じている人物のブログというものは、
悪い意味でのギャップがある人たちのほうが多いため、僕はあまり信用していません。
何故、等身大で自分の気持ちを表現出来ないのでしょうね。
自分に自信がないのであれば、過度なコンプレックスがあるのであれば、
公衆の面前に晒すような文章は控えて、
自分だけが閲覧できる日記にシフトチェンジしたらいいだけなのに、
それでも不純な動機から自己主張をする痛々しい人たちも多くいます。
別にブログの使い方なんて人それぞれだと思うのですが、
言葉や文章を書くという経験とそれなりの期間関わってきた立場の僕からすると、
あまりにも陳腐でどうでもいいものが多く、
このあたりの言葉や文章の感受性をしっかり磨ける人なのか、
それとも陳腐な言葉だけに踊らされる人なのか、
それらも全て活きるセンスに懸っていると思います。
馬鹿、ブスが常套句の僕がお伝えするのも本当にヘンな話ですが、
ほんの少し、言葉や文章に対して自分なりの信念のもと語感を磨くための努力や
工夫をする人たちが増えてくれると嬉しいな・・・と感じる今日この頃です。
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