文章泥棒、情報泥棒、作品泥棒は情けない。~自分の人生を生きましょう~

山野本竜規

2016年08月22日 14:38



昨日、短期滞在している福岡のアパートの部屋に、見事な巨峰が届きました。

僕の友人が送って下さったもので、箱を開けると、それはそれは見事なまでの大粒の巨峰が
4房も入っており、口の中に入れると甘味と程よい酸味が絶妙の巨峰で
連日の移動疲れも一気に吹き飛んだほどです。
Oさん、本当にありがとうございました。

これも早速、座敷わらしちゃん効果でしょうかね♪

これで福岡の逃げ場のないような蒸し暑さによる夏バテも、しっかりと撃退できそうです!

僕はこのブログでいつもお伝えしていることなのですが、
距離的に離れていたり、常に一緒にいる訳ではなく年に1~2回とか、
場合によっては数年、5年、10年単位の割合でしか会えない友人や恩師が
日本各地、世界各国に点在しており、
だからと言って、会う頻度や物質的な距離などは、さほど関係がないような気がしてなりません。

勿論、出来れば会って色々語り合う回数があったほうが良いに決まっているのですが、
それぞれのタイミングとか、仕事とか、生活環境などの関係で
疎遠ではないけれど、そのタイミングがなかなか合わない人たちも多いのが現状です。

しかし、やはりその会う頻度や距離的な問題ではなくて、
しっかりと同じ方向を見つめながら、今、自分が目の前に与えられている環境の中で
精一杯のことをやって、それらを積み重ねていれば、
おのずと心と心で繋がっているものなので、然るべきタイミングで再会したり、
はたまた、電話やメール、このようなブログなどを通してコミュニケーションが取れますので
「元気に頑張っておられるな。」ということが確認出来れば、それだけで十分な場合もあります。

そして、これまたこのブログでお伝えしていることなのですが、
そのような意味で、僕の周囲には必ず心ある人たちがいてくれて、
その人たちの優しさや思い遣りに支えられ、その力があるからこそ、
日々の生活を自分なりに謳歌することが出来ていると常に感じています。

僕は上っ面の人付き合いというものが子供の頃からどうしても苦手で、
逆に言えば、そういう信念をずっと変わらず持ち続けて大人になってみると、
気付けば、しっかりと、そんな自分を理解して受け入れて下さる
優しく心の広い人たちばかりが周囲にいてくれるようになったため、
これほど大切な財産は、他にはないとさえ感じているほどです。

自分という存在をしっかり感じ、自分を生きるということは、
逆に言えば、相当な覚悟がないと築き上げていくことは絶対に出来ません。

*「人まね、マンネリはいかん。~本当に良い言葉です~」
*「自分の居場所は自分で見出し、築き上げていく。」

今の僕の心豊かな人生があるのは、僕の周囲にいてくれる心ある人たちの
思い遣りや優しさがあるからこそなのですが、
その軸を作るためには、先ずは自分が動かなければ、そのような心ある人たちに
巡り合うことはありませんし、たとえ出会ったとしても、
そのご縁は自然となくなってしまうことでしょう。

何がお伝えしたいのかと言えば、
心ある人たちとのご縁にしても、自らの人生そのものにしても、
先ずはしっかりと覚悟を決めて、自分なりの生き方を歩んでいく決意と行動力の積み重ねがなければ
その先にある心豊かな人生には絶対に辿り着けないということをお伝えしたいのです。

*「個性は無理して作り出すものではありません。~自然と滲み出てくるものです~」

要するに、自分という人間がどのような人間で、何を好み、何を良しとし、何をダメだと感じるのか。

そして最終的に、どのような生き方、人生を歩んでいきたいのかを
他の誰かの価値観や思想ではなく、自らの頭でしっかり考えて行動に移して
自分なりの生活環境、居場所を淡々と築き上げていく力がないと、
いつまで経っても、二番煎じ、誰かの物真似のような生き方しか出来ない、
つまらない人生を送ってしまうことになります。

そしてそのつまらない生き方をしている人の周りには、同じように他人の物真似でしか生きていけない
中途半端な人しか集まらなくなります。

巷で溢れている新興宗教とか、怪しいネットワークビジネスとか、投資詐欺とか、
その手の類の中途半端な思想に洗脳されたり、影響されたりするのは、
まさに、そのような「自分で自分の人生環境を整えていく、築き上げていく」覚悟が
全くない、他の誰か、他の何かに依存して生きて
ラクやズルをしたい人たちがハマっていくものなので、もうこの時点で、その人らしい生き方を
生きることは難しいと判断出来ます。

このようなタイプの人たちは、次から次へと依存出来る新しい思想、
影響力のある人物などを渡り歩き、結局、何の収穫もないまま無駄なお金と時間を費やして
周囲で関わる人たちの信用を失い、迷惑をかけ続けて生きる結果になるため、
その生き方自体が、公害そのものだと感じています。

また、ここまで酷くなかったとしても、
他人の物真似でしか生きていけない情けない輩も多いものです。

個人的によく経験することなのですが、特に僕が拠点にしている沖縄で
中途半端なスピリチュアリストに多いのは、自身のブログや講演会などで、
ありきたりのことしか言えず、まるで仏教の写経の行為そのもの、
はたまたキリスト教の聖書をただ朗読するだけかのように、
「こういう場合は、こう対処する。」「スピリチュアル的には●●と判断する。」という
本当に薄っぺらいことしか発信できない、
中身のないつまらない情報発信しか出来ない馬鹿が多いのです。

敢えて「馬鹿」と表現したのは、
自ら考えひねり出した本物の言葉や文章、自らの様々な実体験で得られた
本物の言葉や実体験が伴った情報発信ではなく、
言葉や文章、何かしらの情報発信を生み出すという生みの苦しみがいかほどのものなのか、
その大切さが全く理解できていないからです。

またその生みの苦しみを経てそれらの言葉や情報発信によって
心ある人たちに何かしらのメッセージが届いた時の喜びなどは、
実際にその苦しみを味わった人にしか体験できない貴重な財産でもあります。

そのようなプロセスを全て飛び越して、
他人の言葉や思想を借りれば、それらが簡単に出来てしまいますし、
その他人の受け売りの言葉や文章、情報発信であったとしても、
中途半端な人たちが読めば、「感動した」「支えになった」と何かしらのリアクションが
返ってくるため、これに味をしめてズルしてラクをする輩が
殊、沖縄のスピリチュアル業界や治療業界、ヒーリング業界には本当に多いのです。
(まぁ、どこの業界、どこの地域でも似たり寄ったりという状況でしょうけれど、汗)

そこまでズルをするのであれば、最初からやらなきゃいいだけの話であり、
そのこと自体が本当に好きで好きでやり続けている人たちからすると、
全く理解不可能というか、やっぱり邪道なのです。

たとえば僕がブログで、「意地悪について」というタイトルで何かしらの情報発信をしたとしましょう。

すると、その翌日、はたまた数日の間に、
僕が情報発信した内容とほぼ同じか似通った内容の言葉、文章を
何の恥ずかしげもなく自らの考えとしてブログやその他のSNSなどで情報発信する
「情報泥棒」も多くて、この時点で恥も節操も自らの誇りも何もない輩だな・・・と
僕は幻滅してしまいます。

そして翌日、「投資詐欺について」というタイトルで何かしらの情報発信をしたとしましょう。
すると、その翌日や数日以内に、同じような内容のことについて、
自らの意見をほんの少し取り入れた上っ面の文章を、自分の考えとして情報発信する、
情報泥棒、文章泥棒なんて、わんさか存在します。

勿論、この世の中には以心伝心とか共時性(シンクロニシティ)という、
全く違う地域に住んでいる人たちが、同じような内容なことを
同じような時期に考えて、それらを言葉や何かしらの文章、作品として
表現していた・・・ということは、時々あります。

それが毎日、毎日行っていることであればあるほど、その確率は高くなるものですし、
仮にその共時性が生み出した同じような内容の文章を読んだとしても、
「あぁ、これはこの人らしい捉え方、生き方が反映された本物の文章だな。」と
ただの物真似とは違うことが一目瞭然で理解出来るものです。

ですが、そういうパターンはある程度、似たような価値観を持っている人にしか起こらず、
そうではない人物、要するに同じ立ち位置ではない、
生き方も中途半端な輩が発する似通った情報というものは、その大半が
他の誰かの物真似に過ぎません。

気付かない人は気づきませんが、聡明な人たちはそれが
「あっ、これは情報泥棒だ!」とすぐに気づきますよ。

別に自らが発信する情報を公のブログで発信している時点で、
そこからどのように捉えられようが、伝わっていこうが、
一旦、情報を発信して外に出してしまえば、あとは世の中の流れに
お任せするしか方法がありませんから、僕自身もその覚悟は勿論あります。

ですが、あからさまにその情報をそっくりそのまま自分の意見として泥棒するのは、
盗作と同じであり、「恥ずかしくないのかな。」と、本当に自らの言葉を考え、
自らの実体験を伴った生きた言葉を生み出した人間からすると、
「???」マークだらけになってしまうのです。

どのような業界でも通用することですが、何かしらの物を作り出す、生み出す際には
必ずその人の実体験、経験、技術や才覚を含めた感受性を総動員して
あれこれ考えながら、苦しみながら1つの作品を作り出していくプロセスがあります。

これが「生みの苦しみ」と言われる所以であり、本物の人であれば、
それが他の誰かの作品であれ、生き方であれ、その「生みの苦しみ」に
しっかり思いを馳せたり、リスペクトする心の寄り添い合いが出来るからこそ、
他人が考えたものを盗もうという安易な発想が生まれないのです。

それは文章であれ、思想であれ、何かしらのプロジェクトであれ、作品であれ、
全て同じことが言えます。

何かしらの物事を作り出す、生み出す・・・という生みの苦しみを経験していても、
そのやっていること自体が心の底から大好きな人たちであれば、
絶対に、他人の領域のものを安易に盗むという発想にはなりませんから、
逆に安易に他人の作品泥棒をして、あたかも自分の意見かのように
アピールしていく人たちは、本当にその物事自体が好き・・・という訳ではなく、
仕事のためであったり、自分の保身のためであったり、何かしらの邪な気持ちが入った上での
情報発信、モノを作り出す行為だといえるでしょう。

これは中国やその他の東南アジアなどで氾濫している「バッタモン」と同じ程度のクオリティです。
あなた自身の生き方自体が「バッタモン」って、情けなく感じませんか?

僕はもともと放送局でアナウンサー、報道記者の経験がある言葉のプロ、
そして文章や情報発信をするための言葉を綴るという作業を20年以上続けてきましたが、
そんな陰の積み重ねがあるこの僕ですら、
自分の言葉で、自分の体験から得られた内容で、自分なりの文章構成で
何かしらの情報発信をしていく・・・ということを毎日続けていくことは容易なことではありません。

ですが、ブログやその他のSNSという媒体に限って言えば、
そのような「生みの苦しみ」も情報発信をする・・・という本当の意義も全く理解していない
その怖さや重要性をしっかり理解していないど素人でも、
今は簡単に拙い文章、幼い情報発信が出来てしまう世の中なのです。

そしてそのようなど素人は、結局、毎日情報発信をしていく中で
自分なりの経験や言葉、実体験を伴う何かしらの考え方が足りないことに気付き、
そのうち無意識のうちに盗作のように、誰かのブログで書かれた言葉や内容を
まるで自分の考えた言葉、文章かのようにすり替えて情報発信をしたり、
影響力のある人の思想や言葉をそっくりそのまま載せたり、
はたまた、聖書の朗読や写経のように「スピリチュアル的には・・・。」などと
一見するとごもっともの、普通の内容しか書けない悪循環に陥ってしまいます。

これでは本当の個性、本当のその人らしさ、本当の等身大の本人ではない
嘘偽りの文章、情報発信、生き方になってしまいます。

そして、その上っ面の文章や情報発信に騙される人たちが、いかに多いことか。

これには僕自身、本当にウンザリというか、その幼く拙い文章や
他人の物真似でしか成り立っていない情報発信をしっかりと見極める聡明な人たちが
増えてくれることを願うしか出来ません。

*「ブログを公衆の面前に晒すということ。」

そんなこと、ただの教科書を読んで、誰かに伝えることなんて誰でも出来ますし、
実は、そういう立場でいることは、とても楽で、いかにも、
「あぁ、この人は本物のスピリチュアリストなんだな。」と読者を勘違いさせてしまう力があるため、
無意識のうちにですが、「ラクして上から目線の立場から、何の経験もないのに、
自らの経験から発せられた言葉を使う術を知らずに、教科書通りの
誰かの言葉しか使い回しが出来ない」という残念な状況に陥っていることに、
本人が気づいていない場合がほとんどです。

仕事にしても、何かしらの作品にしても、はたまた人生そのものにしても、
自らの個性を活かして、自分の立ち位置を理解して、
しっかりとその努力、研鑽に努めて前に進んでいる人たちは、
絶対に他人の受け売りのような人生を生きることはありません。

また他人のアイデア、生み出したものを参考にすることはあったとしても、
そっくりそのまま盗むような泥棒のような真似をすることが恥ずかしいという
正常な感覚も信念もしっかり心の中にありますから、
だからこそ、その人が、その人らしく生きていけるのだと思います。

僕の人生は、他の第三者がどのように感じようが、自分自身、とても幸せだと感じています。

何故なら周囲の心ある人たちに理解されて、支えられ、想いを向けられているからです。

ですが、その心ある周囲の人たちがいてくれるためには、
先ずは他の誰でもない自分自身の人生の環境をしっかり整えなければ成り立ちません。

まるで日々の作品作り、文章を生み出す生みの苦しみと全く同じプロセスで、
それはラクをすることも、ズルをすることも、飛び越えて成長することもありません。

毎日、毎日、コツコツと地道に、そして地味に、自分が好きと思えることを続けながら
その積み重ねを淡々と見守っていく・・・。

人生の幸せの価値観は人それぞれだと思いますが、
「ラクしてズルして幸せになる」「成功する」「幸せになれる」という
アホらしい発想ではなく、地道に地味に毎日、コツコツ何かしらのものを積み重ねていくことこそが
本当は一番の近道だということに気付く聡明な人たちが増えてくれれば、
この世の中も、少しはまともな方向になっていくのではないでしょうか。
(かなり上から目線、笑)

ふと心優しい友人から届いた愛情たっぷりの美味しい巨峰を食べながら、
そのようなことを考えていました。


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