迷惑な人が参拝をしても意味がありません。

山野本竜規

2025年01月06日 06:08

 

今日から令和7年の仕事初めという日常が戻ってきましたね。
僕は昨日のブログで吐露した通り、長い連休が終わって
正直なところ、とてもホッとしているというか嬉しい気持ちで一杯です。

*「大型連休が個人的に疲れる理由。」2025年1月5日

ところで、このブログをご覧下さっている皆さんは、もう神社仏閣への
初詣は行かれましたでしょうか。

僕は神社仏閣ではないのですが、個人的にお気に入りの場所への
初詣は既に終えてはいるものの、正式に神社への参拝はまだです。

初詣というのは、あくまで「その年に初めて参拝する行為」そのものですので、
何もお正月や松の内までに済ませなければいけないという決まりはなく、
その年に初めて参拝する日が初詣という受け止め方でいいのかなと思います。

冒頭の写真は去年11月に東海地方への出張の際に立ち寄った
伊勢神宮の内宮の様子。

僕も伊勢時代、ここでお正月の時期、
御垣内参拝という特別参拝のご祈祷を担当していたことがあるので、
あの頃の慌ただしさを想像すると、今でも「大変だったな。」という
遠い記憶が蘇ってくるほどです。

神社神職は12月、1月(伊勢神宮は2月頃まで)繁忙期でもあるため、
自身がゆっくり初詣をする時間を確保するのが難しく、
個人的な初詣は2月頃になるという人も多かったような気がします。
(あくまで参拝者が殺到する伊勢での場合)

神社神職でさえ2月、場合によっては3月が初詣という人もいるくらいなのですから、
松の内までに初詣に行けなかったとしても、残念に感じる必要は全くありませんよね。

ここからは、かなり個人的な偏った考え方というか経験則ですので、
あくまで参考程度に受け流して頂きたいことなのですが・・・。

僕個人としては、
「いくら神社参拝をしっかりしていたとしても、
人としてダメな奴、迷惑をかける奴には
ご利益や御神徳なんて絶対に受け取れない!」
という想いが常にあります。

とても大袈裟な悪い例えで恐縮なのですが、
よく社長とか著名人など、自分にとって利益になりそうな人にだけ
良い顔をして、一オクターブ高い猫なで声ですり寄ってくる
人として品のない、心が卑しくて汚い人たちって、
必ず、どの組織にもコミュニティにも周りにも、どこにでも一定数いますでしょう?

普段は周りの人たちに迷惑をかけたり、不愉快な思いばかりをさせて、
自分の得にならない、利益にならない人には冷たい態度をとったり、
見向きもしないくせに、
いざ、自分にとって得になるような人が目の前に現れた途端、
それまでの仏頂面から、一気に豹変して気持ち悪いくらい良い人を演じるような
サイコパス気質のファっ子ちゃんたち、笑。

僕が一番、人として下品だと思う類の連中で、
仕事は仕方なかったとしても、プライベートでは絶対に付き合いたくない人たちです。

そして、あくまで個人的な経験則なのですが、
こういう卑しい人たちに限って、験担ぎや神様、神社仏閣が大好き人の確率が
異常なくらいまで高いものなんですよね。

今でもよくあることなのですが、
プライベートで素性が分からない普段着の僕には見向きもしないのに、
いざ神社神職の格好をした途端、態度をあからさまに変えて
仏頂面から満面の笑みを浮かべて近づいてくるような汚い人たちって
本当に一定数、今でもいるのです。

それはもう、とても分かりやすいくらいの豹変ぶりで。

本当にこのような経験を嫌と言うほどしてきたこともあり、
自称・神様大好き、神社仏閣大好きな人たち、
または「普段から神社参拝などを欠かさず行っています!」を
こちらから尋ねてもいないのにアピールしてくる人たちに関しては、
個人的にある程度の距離を保ちながら接するように心がけています。
深く関わったところで、ろくなことはありませんから。

沖縄では、公明党と結びつきの強い新興宗教の会員という方が
比較的、身近にどこでも存在するくらい、とにかく多い印象なのですが、
そのこと自体をどうこう思うことは僕個人もありません。

信仰の自由というものがありますから。

ただ、一部と言いたいところですが、かなりの確率で、
どうも態度が悪い人が多いというか、普段の生活マナーが悪い人たちも多く、
「そんなに信仰に熱心な割には、普段の生活で、周りに迷惑をかけているのであれば、
一体、何を学び、何を信仰しているのだろうか?」と疑問に感じることがよくあるのです。

要するに人としてダメな人の割合がとにかく多いと感じるので、
僕はこの団体に関しては懐疑的というか、公私共に一切関わりたくありません。

その新興宗教を信仰している個人を否定している訳ではなく、
あくまで大元の組織自体に懐疑的だという意味です。

僕が以前、住んでいた集合住宅物件の騒音問題で
迷惑をかけまくっていたDQN家族も、その会員でした。
(ある曜日、時間帯だけいなくなるので、すぐに分かる。)

*「物件の騒音問題と反面クソ野郎。」2023年9月2日

建前上、信仰はしっかりして集会にも欠かさず参加するくせに、
普段の生活で周りの見知らぬ人たちに迷惑をかけまくるだなんて
一体、どんな教えをして、何を学んでいるのだろうか・・・と。

自身が信仰する対象物に対してだけは、真面目な態度なのに、
それ以外の部分では、どうでもいい・・・というより迷惑をかけまくる。

これでは本末転倒だろうと、いつもいつも、その矛盾を感じているのが
「信仰の自由」とやらの弊害でもあります。

真の祈り、信仰があるのだとすれば、それは形式だけのものではなく、
日々の生きる姿そのものであり、
そこで周りに迷惑をかけたり、自分勝手な振る舞いばかりをして、
いざ祈りの場所に身を置いたら、豹変して敬虔な信者を演じるだなんて、
それこそあり得ないというか、無駄な行為だと常々感じています。

これは神社神職として仕事をしている時に、神社やその他の場所でも
よく遭遇する不愉快なシーンでもあります。

例えば年末年始の時期は、神社仏閣の駐車場も満車になるのに、
我先に駐車禁止のスペースに車を停めて、
「身体が不自由な人がいるからいいだろう!」とワガママな主張を通す光景は
どこの観光名所でも、神社仏閣でもよく垣間見る不愉快な場面です。

そんなワガママを通してまで、神社仏閣にお参りし、
ご神前の前だけ、しっかり正しい祈りをしたとしても、
その前後の言動が全てファっ子ちゃんであれば、
御神徳もへったくれもありゃしませんよ。

その前にワガママを通し、その言動で周りの人に迷惑をかける日々の
薄汚い言動を悔い改めたほうが、世のため、人のため、
周りのためになりますし、それが出来ないのであれば、
わざわざ神社仏閣参拝なんて、しなくても結構。
(いくら参拝しても無駄なので。)

身近で関わる人たちにすら親切に出来ない程度の迷惑な人なのに、
もっとおおらかな神社の聖域に愛されるはずもなく、
そういう生き方の積み重ね、言動が、
周りの心ある人からも聖域からも愛されない理由だということに気づけなければ
いつまで経っても同じ低空飛行を繰り返す人生になるのが関の山でしょう。

伊勢神宮でも、よく見かけた光景なのですが、
多くの参拝者が後ろに並んでいるにも関わらず、
ここぞとばかりに御拝殿前のど真ん中を陣取って、延々と祝詞などを奏上したり、
ずっとお願い事をしている参拝者が必ずいます。

「後ろに他の人が並んで待っている。迷惑をかけている。」という自覚が全くないため、
そこでいくら正式なお祈りをしたとしても、聖域に愛される人とは微塵も感じませんし、
繁忙期の場合は、警備員や神職が「他の方に場所をお譲りください。」と
強く促すまで、全くその場を動かないという人たちも必ずいます。

果たして本当にこのような熱心すぎる人たちが聖域にも、
周りの心ある人たちにも愛されるのかどうか、普通に冷静に考えたら
一目瞭然だと思いますけれどね。

僕自身、賑わっている神社で参拝をする際、
後ろに多くの人が並んでいるのであれば、参拝自体は10秒以内に終わらせます。
別に時間なんて自由に決めていいと思うのですが、
形式だけの参拝は御拝殿前でさっさと済ませたとしても罰は当たりませんし、
むしろ、それだけスムースに他の方の参拝の流れができるため、
それでいいのではないかなと。

ゆっくりお願い事をするより、潔くさっさとスペースを空けて
次の方にお譲りしたほうが、どちらも清々しい気持ちになれるものでしょう?

お願い事なんて、御拝殿前をわざわざ長時間陣取らなくても、
神社境内のどこだっていいものですし、
むしろ神社参拝の意義は、日頃の感謝の気持ちと誓いを立ててご報告しながら
自分自身と向き合うのが本来の在り方ですから、
自分の願い事やご報告のために、周りに迷惑をかけてまで長時間、
御拝殿前を陣取る行為自体、迷惑千万なのです。

*「違法行為、マナー違反は止めましょう!~神社仏閣に貼られているアレ~」

迷惑千万と言えば、こういう行為も厳禁です。
「ツイてる!教」の教祖様の名前がペタペタ貼られて本当に不愉快になりますから。
これを片付ける側の身にもなって欲しいものですし、
こんな迷惑をかけまくる教祖様を、キラキラした目で心酔する馬鹿な人
もとい、人を見抜く目がない人たちの浅はかさも残念だなと、よく感じます。

聖域に愛される人=周りの心ある人たちを大切にし、愛される人。

基本はこの通りだと常々感じていますので、
神社仏閣に参拝する行為にしても、はたまた他の新興宗教や宗教自体を
信仰する行為にしても、その根幹が崩れているような生活態度の人は
何をやったとしても無意味だということは、
頭の片隅にでも置いて欲しい知識だと思います。

まぁ、それが出来ていれば、周りの人たちに必要以上の迷惑をかけるような
卑しくて汚い生き方はしていないのですけれどね。

何はともあれ、皆さんにとっての祈りの姿とは、どんな意味合いを持つのか、
せっかくの機会なので、今一度、振り返って考えてみるのも良いかも知れませんね。





関連記事