他人の人生は他人のもの。(部外者は、すっこんでろ!)

山野本竜規

2024年10月14日 16:23



昨夜、福岡出張から沖縄の自宅に帰ってきました。
最終便だったので、那覇空港到着後の空港内はガラガラ。
日中は多くの人が行き交う場所なのに、なんだか不思議な気分です。

今日は昨日の出張用の洗濯や家の掃除などをしていたら、
あっという間に朝の時間は過ぎてしまい、昼休憩を挟んで
午後から出張中に溜まっていた事務作業を開始し、
なんとか夕方前までに終わらせることが出来て嬉しく感じています。

夕方を過ぎると、途端に老眼の症状が酷くなって文字が読みづらくなり
事務作業も、より時間がかかってしまうので、汗。
連休中の仕事が捗ると、気分も良いものですね。

福岡出張から戻ってきたら、沖縄も少しだけ涼しくなったようで、
(日中は30°超えで、まだまだ暑いですが、汗)
あと1~2週間待てば、家の窓も全開にして過ごせる日も来るのかな・・・と
淡い期待を寄せているのですが、こればかりは天気次第なので分かりません。

あと、季節の移り変わりと言えば・・・。


こちらも毎年恒例、秋と春に激増する無意味な「助けて!」コール。
僕はあくまで他人なので、他の誰かのことなんて一切助けられないですし、
それは冷たいということではなく、自身と第三者が関わる上で、
とても大切な距離感だと常々、感じています。

秋と春の季節の変わり目は、大なり小なり、どんな人であれ心と身体が気候の変化に反応し、
何かしらの不定愁訴が表れやすい時期でもあります。

それが特に顕著になると、必要以上の不安や心配に過集中してしまうタイプの人たちもいて、
既に過去に起こってしまった、どうにもならないことを思い出すように後悔ばかりしたり、
まだ起こりもしない未来に対して、または他の誰かに対して、
必要以上に執着して心配や不安の想いをぶつけて落ち着かなかったりと、
人によって何かしらの過剰反応を示すことも、よくあります。

ほとんどは季節、気候が安定してくると、その心配や不安の過集中も治まってくるのですが、
心配・不安の渦中にいる本人にとっては、今の悩み、不安、心配にしか意識が向かないため、
なかなか長い期間で、または広い視点で
物事を受け止めるという思考回路に至ることが出来ず、ここが難しい点だなと感じています。

僕自身、特に今年は公私共に近しい人たちとの今生のお別れがとにかく多く、
死別の悲しみや寂しさという想いを感じつつも、
ただ、それ以上でも、それ以下でもなく、「また、どこかでお会いしましょうね。」と
最後は軽やかに、その想いを故人に伝え届けるのみで納得しています。

あまりにも今年、近しい人たちの多くの死別が重なったため、
その周辺の人たちの様子を垣間見る機会も、いつも以上に自然と増えた訳ですが、
それなりに清々しいお別れが出来ずに、迷惑をかける人たちがいて、
これはこれで由々しき課題の1つだな・・・と思ったことがありました。

「旅立ったあの人の人生は、本当に幸せだったのでしょうか。」
「『私が』、旅立ったあの人に、もっと他に出来ることはなかったのでしょうか。」

一見すると、遺された人がこのように訴えてくると、
故人を優しく想い偲ぶ良い人のように感じますよね。

ところが、どっこい、言葉を選ばずにお伝えするならば、
「てめぇは余計なお節介をせず邪魔せず、すっこんでろ!」
と悪態をつきたくなるほど、厄介な連中だと感じています。

故人を想い偲ぶ際、
「この人の人生は幸せだったのだろうか。」と思うのは、
それだけ相手の領域に勝手に土足で踏み込んで、勝手に荒らして、
あれこれ勝手に妄想した挙句、
「嘆き悲しんでいる、寂しいけれど優しくて繊細なアタシ」の自己憐憫そのもので、
これほど不愉快で迷惑な類の人たちは他にいないだろうなと思うほどです。

故人の人生は、故人のものであり、
その人にとって良かった出来事も、そうではない大変な出来事も全てひっくるめて
その人のかけがえのない人生そのものなのです。

それを、家族だろうが他人だろうが、
勝手にあれこれ想像して、勝手に泣き喚いて、勝手にかわいそうだと思い、
「他にも出来ることはなかったのでしょうか。」なんて死んだ後に言われたところで、
もし僕が故人だったら、
「はぁ?あんた、何言ってんの?僕の人生、勝手にあなたの偏ったイメージで
勝手に嘆き悲しまないでくれる?」と化けて出たくなるほど、
そのメンヘラ思考を突き返したくなると思います、笑。

その人の人生が幸せだったかどうかなんて、
たとえそれが家族であろうが、友人であろうが、他人であろうが、
そんなこと、本人が知っているのみで、その大切な境界線を破って、土足で踏み込んで、
勘違いの一人芝居を演じてもらったら、それこそ迷惑です。

何度でも繰り返しますが、故人の人生は、故人のものであって、
他の誰かが立ち入ることが出来ない、その人にしか分からない人生だということを
理解していないと、いつまで経ってもメンヘラ思考からは脱却できないと思います。

これは既に亡くなった人に対してだけではありません。
これを今、生きている人たちに当てはめてみると、どうでしょう?

家族だろうが、他人だろうが、
「あの人の人生が心配」「あの人の生き方が心配」「あの人の将来が心配」と
自分以外の誰かの人生という大切な領域に勝手に土足で踏み込んで、
勝手に妄想して不安や心配を作り出し、勝手に1人で慌てふためいている姿は、
決して他人事ではないと思うのです。

親や大人の保護が必要な子供の場合は、その限りではないと思うのですが、
少なくとも義務教育を終えて、そろそろ自立し始める18歳前後の大人であれば、
親子の関係や距離感も再度見直しの時期であり、
それは親側が自覚して強制的に距離感の見直し訓練を実施する他ありません。
子供のほうから離れてくれれば一番理想的なのですけれどね。

このように子供から大人に成長したばかりの年齢の親子関係に関しては、
まだ許容範囲と言いますか、親が子供の心配をして将来を案ずる姿は
とても健全な状況であると思うのですが、
これが社会に出て働き始めた年齢であれば、もう論外です。

故人だろうが、存命の人であろうが基本は同じですが、
もう一度、これだけは声を大にしてお伝えしておきますね。

「てめぇは余計なお節介をせず邪魔せず、すっこんでろ!」

「他人に無関心になりましょう。」とお伝えしているのではなく、
他人のことで余計な心配や不安に支配されるよりも、
あくまで自分の人生に専念することのほうが最優先であり、
それも出来ない人だからこそ、自分を直視するのが嫌だから、
無意識のうちに「他人への心配、不安」という依存先を逃げ道として用意しているという
事実を受け止めて、そこから脱却する努力が必要なのです。

この思考回路が冷静に理解できたとしても実践はとても難しいものですが、
他人の人生は他人のもの、自分の人生に専念することが、
どちらにとっても心豊かな生き方、在り方なのではないかなと感じる今日この頃です。




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