子供の貧困と経済格差はなくならないからこそ。

山野本竜規

2024年05月06日 20:12



大型連休最終日の夜ですね。
昨日は子供の日でしたが、お隣の韓国も5月5日は子供の日で
各地で子供向けのイベントが行われていたようです。

冒頭の写真は、ソウル在住で30年来の友人のボヤキ投稿、笑。
SNSを2つ使い分けていて、1つは一般交流用、
もう1つは家族やごく親しい身近な人たちとの交流用のもので、この写真は後者のもの。

韓国語で「死ぬ・・・」という意味ですが、これが奥深いというか
単純に「死」を意味する言葉というよりは、韓国の人が
「死ぬほど〇〇だ。」と、肯定でも否定でも何かを強調するために
よく使う便利な言葉でもあるのです。
今回の場合、何が「死ぬほど〇〇だ。」なのかと言いますと・・・。

友人には今年11歳になる娘さんがいるのですが、
去年まで、こどもの日は「パパ、大好き。一緒にどこか出かけよう!」と
あれだけベタベタしていたのに、思春期を迎えて
今年は「ママと2人で買い物に行きたい。パパは自由に過ごして。」と
完全、父親拒否をされ、やさぐれて、1人、賑やかな近所の公園で飲んでいるうちに
深酒してしまい、酔っぱらって気持ち悪いやら、親離れが寂しくて悲しいやら、
色々な意味で「死ぬほど辛い、悲しい」だったようで、笑。

笑っちゃいけませんが、普段、超陽キャで
常に複数の人たちと群れて「ウェーイ!」と賑やかに過ごすことが大好きな友人が、
休日に1人で飲んだくれるだなんて、その情景を思い浮かべるだけで
個人的におかしくて、おかしくて。

僕が娘さんに会ったのは3歳くらいの時で、よくおしゃべりをする人懐っこい子で
両親(友人と奥さん)も、目に入れても痛くないと感じるほど
その可愛がり方は、微笑ましいものでした。

時間の経過というものは、ある側面では残酷でもあり、
あれだけ「パパ、パパ!」と懐いていた娘さんが、
「今年はママと買い物に行くから、パパは自由に過ごして。」と別人のように
塩対応になってしまった現実に、素直にショックを受ける友人の姿が
リアルで目に浮かぶようで、しっかりLINEで励ましておきました。

閑話休題。

きっと親離れ、子離れのタイミングというのは、
多くの家庭で、ほんの少しの心の痛みを伴う側面もあるもので、
それはお互いにとっても必要な成長のプロセスだと常々感じています。

僕は所謂、貧困家庭で育った人間なので、
その貧困家庭から一歩抜け出して、自分なりの道を切り開いていくというのは
自立という側面において様々な弊害が生じて難しいものだということを
事あるごとに思い出しながら、今ある現実と向き合う日々です。

沖縄では、その二極化が特に激しくて、
十分な教育を受けられる子供と、そうではない子供の格差が広がり、
それが親世代、そのまた親世代まで遡って、
ずっと負の連鎖として、今の世代に受け継がれて変わることが出来ない
深刻な問題が、そこかしこに潜んでいます。

経済的に余裕がない家庭の場合だと、
親は働いて生活費を得ることだけで精一杯で、子供の教育は放置ということがほとんど。
働いているならまだマシで、働かずに怠惰に過ごし、ネグレクト気味になる
貧困家庭で育つ沖縄の子供たちも潜在的には相当数いるのが現状です。

そのような家庭では「学校は中卒の義務教育まで。」、
または「高校進学まで」という親からの条件付きを言い渡されることが多く、
それ以降は働いて、家にお金を入れて欲しい・・・と
子供を労働力の1つと考えることに疑問すら感じない家庭、両親というのが
意外なほど多くいるのも事実なのです。

その時点で、子供たちは自分の未来を諦め、
「どうせ中卒だし、行けても高校までだから、適当に楽しもう。」と
負の連鎖で学力や教養を身に付ける努力や機会を自ら放棄して
親と同じような怠惰な生き方を目指すようになります。

実際、僕も「家にお金がないから大学進学は諦めてくれ。
できればどこかで働いて家にお金を入れて欲しい。」と高校2年くらいの頃に
父親に言われたことがあります。

これで自立の道は断たれることになるし、
一生涯、経済的貧困家庭の負の連鎖の一員として同じ地域で
馴れ合いで生きていくようなコミュニティに縛られていくのかな・・・という
漠然とした不安、はたまた、それは果たして自分にとって本当に良い事なのかどうか
どうしても違和感が拭えずに、結局、働いて大学に通うことが出来る道を調べて
そのコミュニティから離れ、自立の第一歩を踏み出したのが
高校卒業後の18歳の頃。

「経済的に恵まれた家庭に生まれていたら、こんな悩みも苦労も抱えずに
普通に受験に専念できて、進学して喜んでもらえたはずなのに。」

まだ若かったので、経済的に自立するということの難しさやもどかしさ、
それと共に、そんなことを気にせずに進学できる同年代の人たちが
とても羨ましく「世の中って不公平だな。」と感じたのも事実です。

大学進学が決まっても、祝福されるより、
「精神的、経済的依存先が減ってしまう」と実の親から残念に思われる気持ちを
ひしひしと感じ取りながら、その場所を離れていくのですから。

親の心子知らず、子の心親知らず・・・。

今、その頃の自分の親と同じような年齢になってみて思うのは、
1つは大切な子供が自分の元から離れてしまうのではないかという寂しさ、
子離れで戸惑う気持ちが強かったのだろうなということと、
貧困家庭ならではの価値観である中卒か高卒で働いて
子供が家計を助けるのが当たり前・・・という価値観を、
実の子供から「それは違うよ。」とハッキリ拒否されたショックのようなものは
相当強かっただろうなということ。

今、日本は社会全体がどんどん弱体化していますが、
だからと言って、子供の未来の選択肢まで奪う権利は
たとえ弱体化した社会全体であれ、実の親であれ、絶対にないと思うのです。

「お金がないから、あなたの将来の夢を諦めて働いてくれ。」

それを子供に向かって平気で言い放つような親は、
そのことで、どれだけ子供の将来や可能性を奪ってしまっているのか
今の時代だからこそ、それぞれが考えなければいけないのではないかなと思います。

子供側も、本気で高校以上の進学を考えているのであれば、
今はネットで簡単に有益な情報収集ができる時代なのですから、
自分で働いて学ぶことが出来るシステムが、まだ日本にも存在しているということ、
そのような選択肢もあるということを頭の片隅に置いた上で、
その親からの要求を受け入れるか、
受け入れないかを決めなければいけないと思います。

ただその大きな決断、判断を
中卒~高卒の15歳~18歳の若いうちに自分で決めて行動に移すというのは
並大抵のことではありません。

それまでに貧困家庭は十分な教育を受ける機会を失っている訳ですから、
相当努力しないと進学できる学力などは身に付かず、
結局、進学するチャンスすら得られないということもしばしば。

そしておおよそ田舎の親というものは
自分の元から子供が離れてしまうのを反対しますし、周りも必死に引き留めます。
なぜなら1人、大きな依存先が減ってしまうのが本能的に分かっているから。

精神的にも子供が近くにいてくれたほうが安心。
貧困家庭であれば、経済的にも子供が働いてくれたほうがラク。

この物理的、精神的な親の依存というのは、
10代の若者にとって、とても大きな負荷になっていることすら気づく術がなく、
ズルズルと蟻地獄の中に引きずり込まれるように身動きが取れなくなることが多いのも
この負の連鎖の大きな問題点でもあるのです。

僕がこの問題と直面したのが約30年前。
あれから30年経った現在、その社会的な問題は一切解決することなく、
国力、社会全体が弱体化してしまい、更に状況は悪化していると感じています。

このような現状を目の当たりにしている今、
僕たち大人が将来有望の若い人たちの夢や希望の芽を摘まないようにするためには
個人個人で何ができるのかを考えなければいけないと思います。

大人という生き物に失望や絶望を感じることがあったとしても、
「でも、そういう大人だけとは限らないよ。」と、少なくとも自分や周りにいる心ある人たちが
自分なりの生活、人生を懸命に生きている姿を見せることだって十分可能です。

大きな変化を起こすことが出来なかったとしても、
大人として個人個人でできることは、いくらでもあるはずです。

賑やかな子供たちの声を聴きながら過ごした、子供の日や連休最終日。

この笑顔が将来もずっと続いて、次の世代に受け継がれていくように
今の立場で、自分の生活、生き方を大切に積み重ねていけたらいいなと感じた連休でした。



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